ルカ4:14-30

 解放の福音


1.聖書(律法、預言者)朗読

 イエス様はナザレに来た......。しばらく、ガリラヤ全土を巡り、その宣教と奇跡によって大きな信用と評判を得たあと彼は故郷のナザレに来ました。

 ナザレでイエス様は育ち、教育を受け、大工をしていたので、ナザレの人はイエス様のことをよく知っていました。したがって、彼はまず他の場所で宣教を行って評判を得ることが大切でした。実際ガリラヤを回って評判を得たので、ナザレの町の人々の間で受け入れられる準備はできていたと言えます。

 イエス様は、安息日には会堂に行っていました。これはイエス様の若いころからの習慣でありました。ナザレに住んでいたときは、町の住民として、また信徒の一員として、会堂での礼拝に出席していました。そして、イエス様が公の伝道者となった後も同じようにしていました。カファルナウムやガリラヤの町で会堂があれば、そこに安息日や他の日にかかわらず通っていたように、イエス様は故郷のナザレでも同じようにしました。

 イエス様は立ち上がりました。立ち上がることによって、「もし許されるなら、スクロール(聖書の巻紙)を渡してください。聖書を朗読します。」との意思を示しました。それは、祭司が命令しない限り許されないからです。律法学者(ラビ)や会堂長などのリーダーであっても、自分の判断では朗読することを許されないのでした。

 聖書を公に朗読することは、ユダヤ人の記録によれば、モーセの任命によるものであります。また、律法と預言者は、立って読む事になっていました。安息日に聖書を朗読しに会堂に入り、朗読したいときには立って、許可を得て、読む本が与えられるのを待つのです。祭司ではなく、レビ族の出身でもなく、ユダヤ人の学校で学んだわけでもなく、大工として知られていたのに、どうして会堂で公に読むことを認められたのか?、との疑問があります。安息日ごとに、祭司、レビ人、イスラエルの民5人の順で計7人が聖書を読みます。イエス様は、その知恵と力強い働きで大きな名声を得ていたので、レビ人ではないにもかかわらず、最初に預言者を朗読すると言う奉仕が認められたのです。

2.イザヤ書が実現?

イザヤ『61:1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。61:2 主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め』 

 読み終わると、イエス様はスクロール(巻紙)を巻きました。

律法や預言者などの聖書を管理する係の者が会堂で奉仕しています。会衆の奉仕者である係の者は、会衆の事務を担い、すべてのものを整えます。特に律法の書と、それが入っていた箱の出し入れをしました。その間、会堂にいる皆がイエス様に注目をしています。これは、この聖書の個所についてイエス様がどのような解説をするのかを期待して待っていることを示します。

 そしてイエス様は話し始めました、....説教で、イエス様が加えた説明は、ここには記録されていませんが、次のことを述べたはずです。

「この日、この聖書はあなた方の耳の中で成就します。それはまるで私が読むべきために預言されたものです、私は、このイザヤ書で預言されている人です。そして今、神の御霊が私の上にあります。私は聖霊に油そそがれ、今あなたに喜ばしい知らせを宣べ伝え、ここで預言されているすべての良いこと、そして提案されたいくつかの目的のために説教をします。そして、この聖書にはあなたがたに読んで聞かせた完全な成果があります。そしてあなたは今日聞きました。だから、それを「あなたの耳にある」と表現します。つまり、あなたが今聞いたことです。ユダヤ人は、これらの言葉がメシアについて語られていることを認めています。」

 聖なる神様は、メシア(救い主:油を注がれた者)を私たちに送ります。そしてイエス様はこれにふさわしいでしょう。それもイエス様が朗読したイザヤの箇所で預言されています。

 これらの言葉にナザレ人は耳を傾けました。彼らの心と良心は、彼の人格と彼の言葉の真実を証明しました。彼らは、イエス様の口から出た「恵みの言葉」、彼らは、彼の口から出る "恵みの言葉"を不思議に思ったのです。


 しかし、この箇所の直後で「この人はヨセフの息子ではないか」という冷淡な問によって、彼らの心の初期の動きが止められました。すると、すべての熱意は無関心であるかのように冷め、「憤り」が続き、彼に引き寄せられそうになった人々の中には、1時間後には彼の衣に手をかけて、彼らの村が建つ丘の峠から彼を追い出そうとした人もいたのです。キリストを贖い主とし、王として、何らかの感情を抱くようになった人は皆、分岐点に立っているのです。右へ進めば、完全な交わりと受容に導かれ、左へ進めば、砂漠に連れ去られてしまいます。

 ナザレの会堂で、『貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれた』と朗読したイエス様ですが、自らをメシアであると宣言した後には、尊敬と期待のまなざしで見ていた会衆の視線が大きく変わってしまったのです。