ルカ1:26-38

 イエスの誕生予告

  ヨハネに関するよりもさらに素晴らしい、もう一つの示し。それは、まさに「神の創造の初め」(黙示録3:14)である方の出現のことです。幸いなことに、私たちは、神様の御手を信じることよって、その神秘を見ることができます。創世記は、被造物の神秘的な起源を、ルカは、特別な被造物であるイエス様の神秘的な起源を私たちに示しています。

1.天使の告知

 私たちは、ガブリエルが神殿で、香をたくザカリヤとの会話を見ました。彼は「聖なる場所」にいて、「聖なるもの」の入り口にいました。それが、今度は対照的に、ガリラヤの丘陵地帯に隠れるようにあるナザレの村です。ナザレは、良いことが期待できない場所という諺があるほどの邑であります(ヨハネ1:46)。天使はここで、王の家を受け継ぐ者に吉報を伝えようとしたのです。ダビデの家が、村の大工と婚約した処女にその家を代表させるとは、まさにダビデの家の没落を表しています。天使の訪問は、神殿の中庭や地上の王の宮殿に限られたものではなく、最も低い境遇と最も低い人にでも、天使は訪問するのです。

  ガブリエルが伝えたメッセージは、次のような敬語を使われていました。

「非常に好まれた」(κεχαριτωμένη)、つまり、神からの特別な恩恵の対象である者として、また神の特別な臨在を喜ぶ者として、「主はあなたと共におられる」と伝えたのです。これはガブリエルがマリアにもたらした特別に恵み深い神様からの彼女の将来への保証でした。彼女はこの保証とすべての面での支えを必要としていました。しかし、マリアの心にはすぐに恐怖が襲ってきます。彼女は予期しない出来事に悩みます。

 マリアはその恐れによって、どんな幸運があるのだろうかと心配します。彼女は自分には特に価値があるわけがないと知っていたので、どんな小さな幸運でも、感謝することができたのです。ガブリエルは今、彼女に「もう恐れるな」と言います。なぜなら、彼女は神様を信じており、彼女の幸運は、永遠の君の母となることだからです。

 彼女の子の名はイエスとするよう伝えます。そして、その子は人を罪から救う救い主となるのです。神様は特別な意味において、イエス様の父ということになります。それは、「人間としての息子」であることを意味します。イエス様は、その人間的な性質に関する限り、神様とは、息子と父親の関係であります。マリアはこのように、神の子の母親となるのです。

 イエス様は父ダビデの王位を継承します。これはダビデの王国の継承で、ユダヤ人に対する「個人的支配」だと理解すべきなのでしょうか?。そうではありません。イエス様は霊的な王国を治める王となるために来られたのです。そして、ダビデは偉大な教会改革者であったことを忘れてはなりません。イエス様は、ダビデの王としての影響力を霊的な意味で継承します。

 イエス様の治世と王国は、永遠に続くものです。世の中の王国は長くても必ず絶えます。マリアは新しい王の母となり、その王はこの世の王として戴冠することのない、永遠の君主なのです。さて、このような知らせを聞いて、受け入れることはできるのでしょうか?。

2.マリアの受け止め

 マリアはこの知らせをどのように受け止めたか?。彼女はとてもおとなしいので、確かに驚いていますが、彼女の返事には穏やさと純粋さがあります。

  彼女は処女なのに、このような誕生はどうして起こるのだろうかと尋ねます。ガブリエルの告知を疑ったのか、信じたのかはわかりませんが、少なくとも率直な疑問を投げかけたものです。ガブリエルの告げたことは、とても重要なことです。彼女はヨセフとの結婚を続けるべきか、それとも彼と別れるべきか、それとも何もしないで待つべきか?マリアには判断がつきません。ガブリエルは彼女に、「神の御手の中で待ちなさい、そうすれば神が約束されたことはすべてそのとおりとなる」、と示唆します。

 マリアは、すでに聖なる御子を授かっていたのです。マリアはじっと座って、神様の導きを受け入れ、従うことを選んだのです。

 そしてここで私たちは、「世界が救い主として必要としていたのは "聖なる御子 "であり、その子が生まれる過程において、"聖なる、無害な、汚れのない、罪人から離れた "者であることが必要であった」ことに気づかなければなりません。この一般的な法則に反する例外は、超自然的な受胎と誕生によってもたらされたのです。ここでは、物事を完全に神様の手に委ねるしか、なすことはありません。じっと座って何もしないことは、時に素晴らしいことになるです。さらにガブリエルは、神様の力に対するマリアの信仰を確認するために、エリサベートに会いに行くことを勧めています。年老いた親族との交わりは、今のマリアに大きな平安をもたらすでしょう。また、神様への信頼を深めることになります。

  マリアはすべての危険を冒してこの告知を受け入れます。彼女の服従は最も神聖なものです。彼女は一時的にヨセフや多くの人々から疑われる存在になってしまいました。ヨセフの受け止め次第で、彼女の評判と命は、危険にさらされます。それはそれは、恐ろしい試練に遭遇したのです。しかし、彼女は神様の意志に従い、神様が望まれるように彼女は祈りました。このような状況下で彼女を支えたのは、神様への信仰です。神様はやがて彼女の名誉を完全に取り戻すでしょう。私たちは、神様のためにどれほどの危険を冒すことができるでしょうか。もし神様がはっきりと命令したとしても、私たちは自身の尊厳と言う最も貴重な財産を危険にさらすことができるでしょうか?マリアはそこまで覚悟を決めていました。言い換えます。私たちには、個人の名声よりも神様を優先させる用意があるのでしょうか?神様は、私たちがそのような犠牲を払うに値する御方なのでしょうか?

  私たちはここで、新しい創造の始まりに注意しなければなりません。天使ガブリエルのメッセージは、マリアに語っただけではなく、私たちに語った告知でした。私たちの信仰によって、この告知が受け入れられ、私たちの中に "キリスト "が "信仰の希望 "として 宿るようにと言うものです。私たちがすべきことは、マリアがしたように、ただそのみ旨と御業を待ち続けることです。それは、待ち望む私たちの霊の上にもたらされるのです。無関心で待つのではなく、期待して待つことで、大きな祝福を得ることができるのです。私たちは神様の御旨を求めて、静止しましょう。そうすれば、神様の救いを見ることができるのです。