ヤコブ2:1-13

人を分け隔てせず

    

「人を分け隔てする」との訳の元は、尊敬をする人を表す名詞です。(プロソポレプシィア:προσωποληψία)その尊敬が「偏見」であったり、「好み」であったりすることを指しています。

また、差別と訳されているのは、区別を意味する動詞です。(ディアクリノー:διακρίνω)

区別は、2つ以上のグループ分けをするための公的な基準があっての判断と言えますが、偏見や好みは主観ですので、基準は必ずしも明確ではありません。さらに日本語で「差別」となりますと、意図的な区別であり、特定の集団の偏見と好みを基準とした、いじめや仲間外れを指すことが一般的です。従い、「人を分け隔てする」は、「偏見を持って人を尊敬する」の意味で、「差別」は、「自分の考えた基準で判定し、区別する」との意味に受け取ると良いと考えます。

1.誤った考え

ヤコブは、イエス様を信じていながら偏見を持って人を尊敬してはいけないと、主にある兄弟姉妹に呼びかけます。兄弟たちは、金の指輪をはめた、立派な身なりの人を尊敬し、汚らしい服装の貧しい人は尊敬しません。そして、尊敬した相手には良い席を、そして尊敬しない相手には適当に案内します。すでに、尊敬の度合いに合わせて区別しているのです。そして、その尊敬の度合いは、金持ちかどうか? そのようにしか見えません。

ここには、2つの間違いがあります。まず、尊敬する相手の基準です。キリストの群れにおいて、お金があるかどうかは尊敬の対象でないのは明らかです。そして、個人が判断した尊敬の度合いによって、扱いを区別してよいのかという事です。明確な基準がなくとも、ご老人優先とか、案内が必要な人優先と言う判断であれば、適切だと言えます。しかし、キリスト者の扱いを個人の偏見で判定し、区別することは間違っていると言えるでしょう。

2.人に憐みを

 イエス様の弟子たちの多くは貧しかったようです。もともと、イエス様は豊かな人向けにではなく、貧しい人々や貧しい地方に向けて伝道をしていました。そして、極々初期には共同生活をしていましたが、だんだんその共同生活の維持が困難になっていったようです。従い、教会の中にも貧富の差が目で見えるようになってきたと思われます。しかし、この信仰の群れは、イエス様によって得られた信仰を喜ぶ群れであって、決して富を喜ぶ群れではありません。多くの弟子たちは、信仰に富み、そして金銭的には貧しかったわけです。しかし、イエス様の国を引き継ぐ資格には何の問題もないのです。

 そこで、弟子たちの仲間なのにもかかわらず、「貧しい仲間を辱めた」ことをヤコブは批判します。そもそも、富で区別する事自体がこの群れでは意味を成しません。それどころか、富んでいる者は、尊敬に当たらないのです。それは、この群れにひどい目に合わせている人達こそ、富んでいる人達だからです。具体的には、金貸しをする金持ちは、ひどい手数料を取って、そして返せないとすぐ裁判所に連れて行かれます。

 また、なによりも富んでいる人々(祭司長やファリサイ派の人々)こそが、イエス様のことを冒涜し、十字架に掛け、そして今も兄弟姉妹を苦しめています。ですから、この群れにとって富んでいる人を富んでいるだけで尊敬する理由などないのです。

 聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行していても、このように偏見を持って人を尊敬し区別するならば、罪を犯すことになります。なぜならば、「貧しい仲間である隣人を辱めた」からです。もし、「貧しい仲間は隣人ではないが、金持ちは隣人である」と考えるのであれば、それは、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行していない証拠であります。ですから、「貧しい仲間である隣人を辱めた」のであれば、それは律法違反そのものだという事です。そして、この律法違反は、「10回の内1回だけだからいいでしょう」という事ではありません。そうヤコブは言うのです。どれくらい愛すればよいのか?と聞かれたら、やはり1回でも「隣人を辱める」ことは、「隣人を自分の様に愛しなさい」との律法には違反しているとしか言いようがありません。

 律法は、私たちに自由をもたらしました。モーセの律法はイエス様によって、

「神様を愛しなさい」

「隣人を自分の様に愛しなさい」

のたった二つになりました。私たちは、律法から解放されているのです。しかし、この2つの律法によって、私たちが裁かれる日がやって来るのです。私たちは、そのことを裁かれる側の人間として語る必要があります。そして、また裁かれないように行動する必要があります。

その行動とは、人に憐みを掛けることです。

『人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。』 

私たちは、この裁きにあわないよう「人に憐みをかける」ことができます。こうして、憐れみは裁きに打ち勝つのです。