使徒13:26-31,38-39

 キリストあって

2023年 416日 主日礼拝

キリストにあって

聖書 使徒言行録13:26-31,38-39

今日は使徒言行録から、イエス様の死と復活についてパウロが語った箇所からみ言葉を取り次ぎます。パウロは第一回伝道旅行で、バルナバとマルコと呼ばれていたヨハネと一緒に、キプロスから現在のトルコの南側に来ていました。それは、この記事からわかります。

使徒『13:13 パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。13:14 パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。』


 バルナバが同行させたマルコと呼ばれるヨハネは、エルサレムに帰ってしまいますから、パウロと何かあったのかもしれません。このマルコと呼ばれるヨハネとは、マルコによる福音書を書いたマルコだとされています。その後、第3回伝道旅行には、マルコも協力者として参加していますので、そのころまでにパウロとマルコは和解したと考えてよいでしょう。マルコは、イエス様の周りで起こったことを、できるだけそのままに福音書にまとめた人です。つまり、イエス様との出来事を語った弟子です。一方で、今日のパウロの説教は、イエス様の言葉や行いについては一切触れずに、イスラエルの歴史、そして預言されてきたことを話します。そして、預言がイエス様の十字架と復活で成就した。そのことをパウロは説教し、多くの人々がそれを聞いて信じたのです。このように、マルコと、パウロでは語る切り口が異なるわけです。特に言われているのは、「イエス様の伝承が美化されてきている」との心配からマルコが福音書を書いた、ということです。イエス様への原点回帰を願っていたマルコであれば、この時のパウロと分かれて行動したのかもしれません。


 さて、当時のシナゴーグでの礼拝は、あらかじめ決まった人あるいは、会堂の指導者の指名で、旧約聖書の朗読、および聖書の解説と説教が行われていました。つまり、だれでも指名があれば説教できたのです。パウロたちは、安息日の礼拝のためにシナゴーグに入り、席に着きました。すると、会堂長たちがパウロたちに、励ましの言葉をお願いします。パウロは、自ら立って説教を始めました。こうして、ピシディア州でイエス様の福音が初めて語られたのです。ここでの説教は、イスラエルの歴史と、預言、そしてイエス様の受難と復活を体系的に説明することから始まりました。


 26節でパウロは、『13:26 兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました。』と会衆に呼びかけています。

この言葉から、ピシディア州のアンティオキアのシナゴーグに集まっている人々は、ユダヤ人とエドム(トルコ)人ですが、異邦人が結構いることがわかります。ここでのユダヤ人とは、伝統的に人種を指す言葉ではありません。モーセの時代ではすでに、ユダヤ教徒のことでありました。ユダヤ教徒とは、ユダヤの神様を信じているだけではなく、ユダヤの伝統的習慣を守る人のことを指します。ですから、異邦人のユダヤ人もいます。その人たちは、改宗者とも呼ばれます。そして、神を畏れる方々、主を畏れる者とは、ユダヤ人と一緒に神様を礼拝している人々のことを指します。ですから、ユダヤ人とはなっていないけれども、神様を信じている人々です。そして、ここは異邦人の地ですから、たぶん神様を畏れる方々とは、ガラティアあたりに住むエドム(トルコ)人だと思われます。

 

 パウロは、今日の聖書の箇所の前のところで、出エジプトの出来事、そしてカナンの地に民族が入った事、そして「ダビデの子孫から救い主が生まれる」とのイスラエルの民に伝承された預言について話しました。そして、神様は約束通り、イエス様をこの世に送ったことを証します。そして、イエス様の先駆けとしてバプテスマのヨハネが悔い改めのバプテスマを施したことを話しました。パウロは、バプテスマのヨハネが言ったことを伝えます。

『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。』

パウロはこのようにイエス様の事を説明しましたが、もっと直接的に「神の小羊と」ヨハネはイエス様を証しています。

ヨハネ『1:29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。』


 さて、バプテスマのヨハネが証した イエス様のことについて、パウロは語りだします。

『13:27 エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。』

 イエス様は、何ら罪を犯していないのに、罪に定められて、十字架に掛けられました。エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエス様を信じなかったからです。そして、イエス様の教えも理解していませんでした。安息日の礼拝で預言者の言葉を読んで、教えている律法学者たちも、その預言の意味を理解していませんでした。それなのに、エルサレムの指導者たちは、神様から与えられた重要な働きをみごとにやり遂げるのです。彼らはイエス様を、罪に定めて十字架につけるという、大きな罪を犯しました。その働きによって、「私たちの罪を背負ったままでイエス様が生贄となる」との神様のご計画が成就したのです。こうして私たちの罪は贖われることになりました。


 その後イエス様は、墓に葬られました。しかし、神様はそのイエス様をよみがえらせたのです。その奇跡の業は、事実であります。それは、復活したイエス様に直接会った人々が証言しています。パウロの説教は、今まで誰も聞いたことのないものです。預言や、イエス様に関して起こった出来事の全てが、神様のご計画によって、私たちの救いのために・・とパウロは語ります。

 この説教には特徴があります。パウロはキリストの日常。例えば穏やかな生活、奇跡、教えについては何も言っていないことです。ただ、イエス様の死と復活に注意を向けています。パウロの語る福音は初めから、このことでした。

一コリ『15:3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、15:4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、』

 しかし、イエス様の言葉は、触れていません。一方で、イエス様の死の先にある復活は、重要な事として位置づけられているのです。ここで主張しているのは、エルサレムの人々がイエス様を殺すことで、聖書に書かれている預言が成就したということです。聞く耳を持たない彼らエルサレムの人々は、安息日には毎週、預言者の声を聞いてはいましたが、預言者らが語った言葉の意味を理解しませんでした。預言を理解していなかったのに、それでも彼らエルサレムの人々は、その預言を成就させてしまいました。

 パウロが語る前、シナゴーグでは預言者の言葉が読まれていました。パウロは、その預言が成就したことを告げます。神様は、その頑ななエルサレムの人々を用いて、神様の計画を完成なさったのです。


 復活の出来事を歴史的事実とする証拠としては、目撃者の証言が要ります。イエス様が婦人たちや弟子たちの前に現れたから、その証言は得られたのです。また、パウロ自身も復活したイエス様に出会っています。それなのにパウロは、このときイエス様の死と復活について証言をしていません。(パウロは体験しています。一コリ『15:8 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。』)

 このときパウロの伝えたかった事は、復活を証明することではなかったことが伺えます。パウロが明らかにしたかったのは、イエス様の十字架の死と、死からの復活は、神様が約束したことであり、その約束が成就したことでした。「預言者たちが預言したことが成就した」。そこに、パウロは注目していたのです。ユダヤ人たちは、預言されたイエス様の死に関わりましたが、預言の成就には気がつきません。一方で、イエス様は預言通り、死から復活しました。

 復活は死者からの誕生であります。イエス様は、初めて死を乗り越えた方なのです。ですから、パウロは『御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。』(コロサイ1:18)と言っています。こうして、イエス様の死と復活によって、罪の赦しと、永遠の命が私たちにもたらされました。


 パウロは、兄弟たち及び異邦人が、この救いに与る事を切望していました。しかし、キリストの復活を事実だとして宣言することや、預言の成就を語るだけでは、「救い」には与れません。そこでパウロは、モーセの律法を守ることでは得られなかった「罪の赦し」について話しました。

イエス様の十字架での死によって、「私たちの罪」は贖われ、神様は私たちの罪を赦されたのです。それは、イエス様のとりなしによって私たちが義しい者とされるからです。イエス様を信じる者は皆、イエス様の贖いによって義しいとされるのです。これは、私たちから罪がなくなったのではなくて、私たちが「自身で罪を贖う」ことから免除されたのです。神様の前に正しくないけれども、正しいものとして扱われる、一方的な神様の愛の結果であります。その神様の前に正しいものとして扱われることを、パウロは「義とされた」と呼びました。


 パウロは、律法では成し遂げられないこと。つまり私たちが、「義とされた」ことを語りました。パウロの言葉「義とされた」とは、無罪として宣告され、扱われることです。律法では、人が義とされることはありません。なぜならば、罪を判断する基準である律法の前には、人は裁かれるしかないのです。人は、必ず罪を犯します。ですから、神様の前で罪を赦していただくしか、私たちは義とされることはあり得ないのです。だからこそ、神様は一方的な愛によって、「キリストにあって」義と認める道筋を与えられたのです。「キリストにあって」私たちが義とされるとは、「キリストを通してのみ」私たちは罪の赦しを受けるということであります。


 「キリストにあって義とされる」事は、完全かつ絶対的なものです。そして、それを受け取る唯一の条件であり、そして十分な条件は、イエス様への信仰です。義とされることは、神様の愛の賜物です。その愛が大きいので、明るく感じますし、それを拒否した時の影は大変暗く感じられます。イエス様への信仰を受け入れる、受け入れないは、自由な選択ではあります。しかし、自由であったからと言って、パウロはそのことを伝えないわけにはいきません。むしろ、福音を聞こうとする人々に、そして、福音を知らない人々にも、この良い知らせを伝えなければなりません。そして、それ以上に、福音を聞こうとしない人々にもパウロはあえて福音を宣べ伝え、世界中の人々にこの良い知らせを伝えようとしたのです。わたしたちも、その役割が与えられています。皆さんにこの良い知らせ「キリストにあって義とされる恵み」を、お伝えしていきましょう。