コロサイ1:15ー20

パウロの証

2020年 10月 25日 主日礼拝

『パウロの証』

聖書 コロサイの信徒への手紙1:15-20 


 教会歴でいう、降誕前第9主日になりました。教会歴は降誕前第9主日から始まりますので、今日は教会歴の初めになります。ドイツの作曲家で聖トマス教会の音楽監督(カントル)だったヨハン・セバスチャン・バッハのころの礼拝では、教会歴にあったカンタータを毎週演奏するため、毎週のように教会カンタータを作曲したそうです。現在のプロテスタント教会では、教会歴に細かくあわせた礼拝は、行われていません。

 今日は、イエス様の受難と復活の物語の第一話として、コロサイの信徒への手書から み言葉を取り次ぎます。コロサイの信徒への手紙は、エフェソ、フィリピ、フィレモンと同じように、パウロがローマで投獄されていた時に書いた手紙とされます。そのころのコロサイの教会には、偽教師などの問題があって、パウロがその問題の解決のためにアドバイスを書いたのです。

 

 今日の聖書の箇所は、パウロの「証」になります。イエス様はどういうお方なのかを、パウロは証しをし歌いました。そして、イエス様のことを語ることによって、御子を下さった父なる神様に感謝をささげているのです。

 

 パウロの証の前に、イザヤ書の52章7-10節を読みたいと思います。旧約の時代から待ち望まれていた「救い」を歌ったものです。「良い知らせ」とは、英語では、good newsや、gospel(これは 神の言葉god’s spell)と言います。日本語では、福音と訳されます。Good newsの示す意味やマラトンの伝令を起源とする言葉であるという意味からいって、「福音」と言うよりは「よい知らせ」の方が正しいのですが、日本では伝統的にgood newsのことを福音と呼んでいます。また、シオンとは、エルサレムの街を指す特別な名前です。イザヤ52章の途中から読みますから聞いてください。

 

イザヤ『52:7 いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。

52:8 その声に、あなたの見張りは声をあげ/皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る/主がシオンに帰られるのを。

52:9 歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。

52:10 主は聖なる御腕の力を/国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が/わたしたちの神の救いを仰ぐ。』

 

 このなかで、歌われている「良い知らせを伝える者」とは、福音を述べ伝え、ユダヤ人の王と呼ばわれ、エルサレムに入城するイエス様の姿に違いがありません。美しい街エルサレムは、バビロンが攻め上ってきたために廃墟になっていました。時がたって、人々はこの街を立て直しました。そこへ、神様はイエス様を降したことで、民を慰め、そしてユダヤの民を贖われました。そのように、メシアとしてイエス様が来られることは、すでに旧約の時代に預言されていたのです。

 しかし、この預言の中ではメシアが預言者なのか、天使なのか、神様なのか等までは、書かれていません。それが、キリストを信じる者の群れが大きくなるにしたがって、問題になってきていました。

使徒パウロは、ダマスコで回信したときに、イエス様と出会い、イエス様を神様であると信じて、伝道を始めました。・・・そのころのことです。地域によっては、土着の宗教の影響のために、パウロが教えたイエス様と異なる理解を持つ教師がいて、偽教師とパウロが非難するような状況にあったようです。 ですから、パウロはコロサイの教会に向けて、イエス様が神様であること、すなわちイエス様に対する信仰の告白をする必要があったのです。

 

それでは、パウロが、イエス様をどんな方だと理解していたのかを、順番に読み取ってまいりましょう。

15節で御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものに先立って生まれた方であると、パウロは始めます。神の御子イエス様は、目に見えない神様、その神様に似ていらっしゃいます。そして、イエス様は、神様が造られたものではないとパウロは言いました。神の御子は作られた側ではなく、創造主、造った側だと言うのです。つまりパウロは、御子イエスのことを、「この世が作られたときにすでにおられた神様」だと教えたのです。

これは、4世紀ごろに確立した父御子み霊の三位一体のことに関わりますが、パウロの時代は、まだ「三位一体という教え」はありませんでした。また、当時は、イエス様は神ではないと教える人もいました。この当時の様々な教師の中には、「イエス様は神様と人との中間の方」と教える者もいたのは事実です。これらの教えの違いは、イエス様を信じるという点では変わりがありませんが、教える側の不一致は、混乱を招いたものと思われます。パウロがイエス様のことを「神様だ」と、今も強く語らないわけにはいかない状況ということは、コロサイの教会にとっては、試練の時だったことが伺われます。

また、コロサイの教会には、特にこの地区では、異教徒の影響を受けた事情もあって、実際に東方由来の神秘思想や禁欲主義を取り入れようとした人が居たようです。そういう事情もあってパウロは、イエス様は神様ご自身であることを、きっぱりと書き記したのだと思われます。

 

パウロは、イエス様について、説明を続けます。

1:16万物は御子によって、御子のために造られました。そして

1:17御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。とも言います。少し解説しますと、この原文には主語がありません。動詞を見ると三人称単数ですので、「彼」が主語になります。また、御子という言葉は原語にはありませんし、「支えられている」は、適切な訳ではありません。(原語は、「一緒に」と「造る」の合体した言葉)

主語をイエス様にして、同じギリシャ語は同じ訳にしますと、こうなります。

【イエス様は、ご自身によってすべてのものを造られました。】

【イエス様は、すべてのものが造られる前からおられ、すべてのものを一緒に造られました。】


 このことから、パウロは「イエス様が神様で、造り主だ」と言っていると読みとって良いでしょう。このように、パウロは「すべてのものが存在している理由は、イエス様の業によるもの」との、教えているのです。

創造の時、すべてのものが無いところから、イエス様が私たちを造られたことを考えてみましょう。イエス様は誰のために私たちを造られたのでしょうか?

造られたものが存在しない時ですから、そこにはイエス様しかいません。ですから、「私たちは、イエス様のために作られた」ことに違いはありません。私たちは、イエス様のためにイエス様を愛する者として造られたのです。だから、私たちはイエス様に愛され、生かされている存在であります。そして、私たちが神様と隣人を愛し、神様と隣人に仕えるのは、イエス様の福音を伝えるためであります。


 「私たちは、イエス様のために造られたし、造ったのはイエス様」   ですから、イエス様は私たちに対して 主体的です。そんなわけで、イエス様は私たちといつも共にいて下さり、一方的に私たちを豊かに支えて下さるのです。そして、罪深い私たちは、イエス様の恵みと、執り成しが無くては生きてゆく事ができないのです。その私たちの罪を贖うために、イエス様は十字架に架かって死んで下さいました。ありがたいことです。そして、三日目に復活され、いまも私たちと共に歩まれているのです。

 

パウロは18節で御子は、そのからだなる教会の頭(かしら)であると教えます。「教会を人の体に譬えると、イエス様は頭にあたる」という意味です。イエス様の目で見、イエス様の耳で聞き、そしてイエス様の口で命じられたことを行ってゆく事が、教会にある私たちに期待されています。私たちは、教会と言う体の一部なのですから、頭から委ねられたことをしなければ、教会はうまく動けないのです。・・・パウロが、このようなことをわざわざ書き送るわけですから、コロサイの教会は、イエス様を頭とした教会運営ができていなかったものと思われます。しかし、これはコロサイの教会だけの問題ではありません。と言うのは、イエス様の目で見、イエス様の耳で聞き、そしてイエス様の口で命じられることは無いからです。私たちは直接的にイエス様のご命令を知ることはできませんから、混乱もしますし、迷いがあります。

それでも、イエス様は「誰かを通して私たちに働き」かけますし、「祈りの中で答え」を与えてくださいます。ですから私たちは、イエス様はどう見るのか、どうイエス様には聞こえているのか、イエス様ならどうご命令されるのかに注目したいです。私たちは、どうしても声の大きい人や、権威のありそうな人の意見に引っ張られがちです。それは、防ぎようがないかもしれませんが、イエス様ならどうする?ということを自分の中で問うことを、パウロは教えているのだと思います。

 

イエス様は、この世を創造されました。そして、教会はイエス様の新しい創造の業です。私たちは、イエス様の創造の業に与っているのです。教会はイエス様の十字架の贖いと復活によって、救われた人が集められて出来たのです。集められたのは、イエス様です。そして、イエス様は、その教会を守ってくださっています。教会はイエス様によって創造され、その教会を守るために聖霊が送られているのです。私たちは、その教会の体として、頭であるイエス様に仕えていることに感謝したいものです。

 

最後に、パウロはコロサイの教会に訴えます。

パウロは、「イエス様は預言者の一人」または、「天使のような存在」とのキリスト教とは異なる教えに対して、反論したのです。そして、「神様ご自身がイエス様の中に住まわれた」とパウロは言います。・・・

これはパウロの理解というよりも「イエス様は、神様ご自身である」とのパウロの証であります。これは、信仰告白以外の何物でもありません。

 

さらにパウロは、イエス様について告白します。イエス様によって創造された私たち人間は、イエス様の愛に守られながらも、罪を犯してしまいます。それでもイエス様は、父なる神様と私たちの間にお立ちになって、父なる神様と私たちとの間を和解へと導いてくださるのです。そのために、父なる神様が十字架の出来事をおこして下さり、イエス様の贖い 十字架の贖いによって父なる神様と私たちの関係が回復されました。これこそキリストの福音であると、パウロは解き明かしをするのです。こうして、イエス様の出来事、そして十字架の出来事をパウロが人々に伝えることによって、イエス様の福音が広がりました。その陰には、名もないたくさんのクリスチャン達が、世界中でイエス様のことを伝えていたのです。十字架と復活の福音。私たちが救いに与ったメッセージを、日々出会う人々に伝えてゆきましょう。イエス様のことを証しして、福音が伝わり、そしてキリストの体なる教会が出来上がっていきます。これは、創造の業であります。イエス様と共に、創造の業を担ってまいりましょう。