マタイ5:13-16

立派な行い

2023618日 主日礼拝  

立派な行い

聖書 マタイ5:13-16 
 今日の聖書は山上の説教の中のひとつですから、皆さんになじみがある部分だと思います。
塩と光。どちらも日常生活に必要なものです。しかし、そのありがたみはほとんど気がつくことはありません。まず、塩ですが、日本では大体海水から水分を蒸発させて作ります。古くは、海藻を燃やして藻塩を作ったり、塩田や窯で塩を作りました。海水から作りますから、本来、NaCl(塩化ナトリウム)という物質のほかに、たくさんのミネラルが入っています。海外では岩塩を使うのが普通で、これもNaClだけではなくて、ミネラルがたくさん入っています。だから、日本で普通に使っている食塩(食塩は100%が塩、海塩は概ね99%で塩辛さが弱い)ほど塩辛くないのです。パレスチナで使う塩は岩塩ですから、だいたい95%から99%の純度の塩を想定してください。今でこそ、塩味の弱い塩も好みで使われますが、この時代は、主に食べ物の鮮度維持のために塩を使いましたから、やはり塩味の強めの塩を選んでいたと思われます。

 イエス様も言いました。「あなたがたは、地の塩である。もし、その塩味がないなら、どうやって塩漬けにしますか?」 これは、原文の直訳です。塩は、食料の保存のために使われました。そして大事なことがあります。塩(ハラス:ἅλας)という言葉は、「神様が養って下さり、そして信仰を維持してくださる」ことをから来ていることです。ですから、塩漬けにするという譬えは、神様が私たちに塩を振りかけ、私たちを新鮮で健全な状態に保つことをさしています。そうして、私たちは、神様の前に新鮮さを保つのです。 塩は、食べ物を腐敗から守り、体を健康に保つために必要なものであるとともに、塩は私たちの生活を守るために与えられた神様の愛なのであります。私たちに振りかけられる塩に塩味がしなければ、信仰生活は腐敗してしまいます。だから、塩味のしない塩をいくら使っても意味がありません。神様から頂いた愛の詰まった塩を使って塩漬けにするべきなのであります。

 イエス様は、弟子たちに「心の貧しい人々は、幸いである」と神様の祝福を語られた後に、弟子たちの使命を教えました。第一は、「あなたがたは、地の塩である。」 ここで挙げられている塩の役割は、「味付け」ではなく、鮮度を保つことです。食べ物は、塩を刷り込んだり、漬け込むことで、長期保管が出来ます。信仰の鮮度も、食べ物と同様に、神様が下さった塩で保たれます。私たちは、この塩がなければ神様から離れようと、自分中心に生き様とします。ですから、神様への畏れを忘れてしまい、罪をおかします。ついには、罪の意識も薄くなってきて、信仰は腐敗してしまうでしょう。だから、そこに塩味が必要なのです。一人ひとりが、もっと自然にそして健康的に生きるために、自分の持ち味を見だすべきなのであります。そのためには、いろいろな風味をもった塩を神様は準備されているのです。イエス様を信じ、神の子たちとされた私たちは、神様の愛によって味付けされるのです。また、私たちも自分が頂いた塩を周りの人たちと共有しますし、逆に信仰の友からも塩を頂きます。その信仰の交わりに入って、神様に造られた一人一人が喜びをもって、教会生活を歩んでいくのです。

 さて、私たちに近い人々が、神様から目を離し、信仰が失われているとき、私たちは、その信仰を取り戻すために祈ります。勿論、特に何が出来るわけではありません。だけど、悲観するだけでは、何も変わりませんから、隣人が滅びないために声をかけるのです。そのとき必要なのは、隣人を否定する言葉ではなく、神様の愛に基づいた、そしてイエス様の犠牲に基づいた塩味の利いた言葉です。塩味の利いた言葉には、神様の愛が働いているからです。だから、イエス様は、信仰の友と共に、神様から頂いた塩を振りかけ合って、その塩味で信仰を支え合うよう、命令されているのです。そうすれば、その塩味が全体にいきわたって、私たちの周りの人々の全てが、神様の愛に包まれた喜びの中で生きていくようになるのです。

 二番目に、「あなたがたは、世の光である。」この世は、暗闇に満ちております。生きる希望や喜びを失う人や、愛に飢え渇いている人がいます。その暗闇の中にある光。皆さんはどんな光景を思い浮かべるでしょうか?私は、長崎の町、山の間の谷底にできたような長崎の町に長年住んでいました。その夜景を思い出します。瞬かない夜景ですね。小高い山の中に住宅が密集していて、その窓灯りが谷底や隣の山から良く見えるわけです。ごくごく、距離は近いので視界いっぱいにその灯りが広がります。山上の説教をしたときイエス様は、山の中腹に登っていました。そして、町の方を見ると、山の側面や頂上まで家が密集していますから、長崎の夜景と似たような状況だったと思われます。当時のイスラエルの町は、テルと呼ばれる人工の山にありました。なぜ山に家を建てるのかと言いますと、結果的に山になってしまっただけです。古い家を建て替えるときに、古い家を崩して、その上に家を建てる習慣がありました。これが何千年も経つと、自然と山になってしまいます。平地に引っ越せばよいと考えるかもしれませんが、水がある場所から離れると毎日の水運びがさらに厳しくなりますし、城壁の外に出るのは安全ではありません。なので、そういう山の町が人工的にできました。イエス様が説教をしているのは、山の中腹です。そこから こんもりと山に密集した家々の灯を見ていたのだと思います。

 イエス様は、「あなたがたは、世の光である。」と教えました。イスラエルの町の家が山を覆うようにあって遠くまで灯りが見えるように、イエス様の弟子たちは高いところから遠くまでその光を届ける事となります。山をおおう家の灯りは、隠すことが出来ませんから、その光を放ち続けます。もし、世の光である弟子たちが、谷底にいてそこを照らしていたのでは、遠くまでそして多くの人を照らす使命を果たせません。部屋の中でさえ、ともし火は高いところに置けば、光が遮られずに部屋の隅々まで照らせるのですから、弟子たちも同じように、高いところから世界中を照らすことが求められます。

 イエス様は『あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。』と教えました。すでに弟子たちの光は、自分たちのためではなく、イエス様が与えた伝道の使命のための光なのです。そして、具体的には、「立派な行い」をイエス様は求めています。立派と訳されている言葉はカロス(καλός)。良いとか美しいと言う意味です。ニュアンスとして、「魅力的な良いこと」をさします。ですから、他の人が美しいもの(つまりイエス様への信仰)を受け入れるように、引き付けられるような良い行動をとりなさいとイエス様は指示したのです。弟子たちに求められたのは、「イエス様への信仰が魅力的であることを示すこと」だったのです。すべては、伝道のためであります。ですから、目立てばよいというわけではありません。ファリサイ派の人々が目立つところで長く祈ったように、ぎらぎらした大げさな光では、美しくないのです。 たぶん、蝋燭のような灯がふさわしいでしょう。蝋燭は決して十分に明るいわけではありませんし、息を吹きかければ消えてしまいます。そのような灯りであるからこそ、私たちはその灯りを穏やかな気持ちで見つめることが出来ます。そして灯りが消えないように、そして灯りを遮らないように気をくばります。その灯りは、私だけのためにあるわけではないからです。こうして弟子たちの灯りで世界中の人々を照らすようにイエス様は命令しました。それは、弟子たちの力に拠って達成するのではありません。神様のご計画によって、そして聖霊によって導かれるのです。ところで、この教えが「心の貧しい人々は、幸いである」との教えのすぐ後にあることに注目したいと思います。イエス様は、弟子たちに「あなた方は強くなりなさい」とは、教えていません。むしろ、「心の貧しい人々は、幸いである」、「 悲しむ人々は、幸いである」と、まるで私たちが普通に思うことと正反対を教えました。これは、イエス様は弟子たちに今のあなた方のままでいて良い。その方が、神様に導いてもらえる。そして、必ず神様のご計画通りに、あなた方は灯りを人々に届けることが出来る。だから、神様にすべてをゆだねなさいと・・・イエス様は教えていたわけです。

 私たちは、地の塩、世の光です。イエス様は、「地の塩、世の光になりなさい」と命令したのではありません。また、「地の塩、世の光になるであろう」と予告したのでもありません。イエス様は、あなたがたは、「地の塩、世の光です」と、すでに地の塩であり、世の光であると宣言しました。地の塩、世の光であるから、神様から頂いた塩を用い続け、人を照らす役割を果たしなさいとイエス様は命令したのです。そこに居るのは、心の貧しい弟子たち。決して自分の力で立派な行いなどできません。でも、弟子たちは、自分の弱さを覚えているからこそ、神様に、世の光であるイエス様に拠り頼むのです。中途半端に強い人だったら、自分で何とかしようとしたでしょう。しかし、弟子たちは幸いなことに弱い者だったのです。言い直しましょう。弟子たちはすぐにイエス様に頼らなければならないほど、何もできなかった。だから、イエス様に頼る。これは幸いなことです。そして、それは「立派な行い」なのです。地の塩は神様の愛により与えられるものであります。また地の塩はイエス様の十字架の犠牲の上に与えられるものであります。この本物の塩は、私たちを生き生きとさせ、そして私たちの人生を味付けするのです。触れ合う人にその自分の頂いた塩をふりかけるだけが、私たちの役割「立派な行い」であります。そのあとの役割は特にありません。神様に任せるのがよいのです。すでに、神様の愛はその人に働いているのです。また、世の光はキリストを通して示される神様の存在を表します。私たちには、この光が灯っています。ですから、私たちには、全世界の人に会って、その光で照らす使命が与えられています。もし、イエス様を信じていることを隠すように、その光を物陰に置いては、その役割は果たせません。だから、イエス様を信じていることを出会う人々に示すのです。イスラエルの町の夜景のように、あちこちの家から明かりが見えている。その後は、神様がされることです。私たちは、幸いなことに心が貧しくて、それ以上の事が出来ないからです。信仰に人々を導くのは、神様です。私たちが教えて導くわけではありません。だから、丸ごと神様にお委ねして、イエス様のされる事を見守っていきましょう。それが「立派な行い」なのです。神様の愛によって頂いたイエス様への信仰を地の塩として受け続け、そしてときどき、周りの人々にその塩を分かち合ってください。そして、クリスチャンとなって救われたことを喜んでいてください。一人一人の喜びがたくさん集まると、それが町の灯りのように、多くの人々を照らすからです。