2020年 6月 14日 主日礼拝
『備えてくださる神様』
聖書 マタイによる福音書6:24-34
おはようございます。6月第二週は花の日です。 米国メソジスト教会が始めた、教会学校の活動ですが、日本の教会にも浸透しています。日本で8月7日という新しい花の日が設定されていますが、これは言葉遊びのようです。
花の日にちなんで、今日の聖書の箇所を選びました。有名すぎて、皆さんはこの箇所の説教を何度も聞いていると思いますし、素直に読んで十分に理解できます。そこで、視点を変えて、24節にある「神と富とに仕えることはできない」から、花の日のみ言葉を読み解きたいと思います。
「あなたは、神様に仕えるか、富に仕えるかどちらを選びますか?」と問われたら、「もちろん、神さまです、富には仕えません。」と、言うでしょうか? 「神様と富どちらも捨てがたい」などと、迷うでしょうか?
と言う前に、「神様に仕える」と、「富に仕える」をあたかも「全く正反対」であるかのように対比する理由を理解しなければなりません。と言うのは、私たちは「神様と富」が、全く正反対な性質を持つのではなく、神様によって私たちは必要な富を与えられている。そのように考えるからです。
ここで、「富とは何か」を先に考えましょう。富と訳されているのは、シリア地方でその当時使われていた言葉だそうです。意味は、「金銭」「財産」を示しますが、英語訳の聖書を見ると、そのシリア地方の原語のままの「マモン:mammon」を使っています。どうしてかと言うと、このシリア語のマモンは英語になってしまったということです。
マモンを辞書で調べると、「(悪徳としての)富、(物欲の擬人的象徴として)富の神」を指します。そもそも、旧約の時代から不正による財産を指す言葉だったようです。また、このマタイ6:24の「神と富とに仕えることはできない」の箇所から、神の全く正反対の性質を持つ「富」とは「異教の神(物欲の神)」を象徴しているとされているそうです。
そのうえで、今日のみ言葉の「神と富とに仕えることはできない」を受け止めてみましょう。「神様と物欲の神のどちらを取るのか?」との問いです。当然ながら、片方を取ると、片方が失われるという、全く正反対の選びを問われているわけです。
また、「神様と悪徳な富のどちらを選ぶか?」でも同じです。
神様と富は必ずしも全くの正反対ではないのですが、悪徳な富は、明らかに神様と全くの反対側にあります。そして、善良な富を支配しているのは神様です。神様が、私たち人間と善良な富の両方を支配しているのです。神様は、私たち人間に一方的に神様の善良な富をお与えになります。神様は、必要を満たしてくれているものですから、私たちは神様だけを向いていればよいのです。それでも、神様が支配する善良な富をより多く自分のものにしようとして、どのように自分で支配したら良いかを思い。そして、悩む。神様が、自分に分け与えられた以上の富が欲しくて、手を出したくなる。それは、物欲の神に仕える事、異教の神に仕えることにつながります。それが、私たちの姿であると聖書は語っているのです。
だから、「思い悩むな」。そのように、聖書は続けます。
自分の命、そして自分の体。それは、食べ物、飲み物、衣服等の富よりも大切です。ですから、神様は私たちの命、体のために必要な富を与えてくださいます。
空の鳥(ルカ12:24では烏)のことを考えてみましょう。空の鳥は、自然と与えられた食べ物を食べて生きています。決して、自身が食べる以上に餌を集めることも無ければ、ましてや人間みたいに作物を作って収穫するようなこともありません。ですから、空の鳥にとって、あすの食べ物が得られるかどうかは、不確かなことです。しかし、空の鳥は不安になることはないでしょう。なぜなら、神様が空の鳥を養ってくださっていて、神様に身を任せているからです。空の鳥は、神様に支配され、神様に仕えているのです。ましてや、私たちは人間です。神様は私たち人間は、空の鳥以上の大切な存在です。
6:27を見てみましょう。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」
ここまで、イエス様はおっしゃるのですね。空の鳥は、思い悩まずに暮らしていけます。それは神様が養っているから。そして、同じように神様に養われている私たちが、思い悩んでも、思い悩むことをしなくても、神様はいつも変わりなく養ってくださいます。もともと、私たちに必要は与えられていますし、これからも与えられます。いまこの瞬間思い悩んだところで、将来への不安から富を増やそうとしたところで、何になるのでしょうか? 私たちが思い悩んだところで、寿命が伸びるわけでもません。
野の花は、衣服のことで思い悩むことはありませんし、お金を得ることが無く、自分を飾る糸をつむぐこともしないで、じっとそこにいて育ちます。それなのに、あの栄華を極めたソロモン王よりも、きれいに着飾ることが出来ます。そして、ただ一つの野の花にさえ、神様は必要を与えてくださるのです。野の花は、今日、美しく咲いていても、明日には枯れて、土で作った簡素なオーブンの中で燃料として燃やされるはかないものです。その野の花にでさえも神様は、素晴らしく着飾らせてくれるのです。
神様は、人間に対しては、なおさら「私たちの命」「私たちの体」のために備えてくださいます。ですから、心配はいらないのです。神様は、私たちの必要を御存じです。ですから、富にではなく、まず先に「神の国と神の義を求めなさい。」
そうイエス様は教えられているのです。必要な「富」は、みな神様が与えてくださる。だから、イエス様に委ねて 思い悩むことは必要がありません。明日のことは、今日悩むのではなく、明日考えればよいことなのです。
さて、このみ言葉は、教訓のように聞こえてしまいますが、「神様に より頼んでいれば、神様が養ってくれるので、富に仕えることも、明日のことで思い悩む必要がない」ということになると思います。
しかし、聖書がお勧めしていることでありながら、なかなか、人はそうはできないのだと思います。たとえば、聖書には、こんな物語もあります。
イエス様の弟子たちは、復活の出来事の後、財産を出し合って共同生活をしていました。そのころは、終末が近いという考え方もあって、財産について無頓着だったとも言われています。そのせいかわかりませんが、皆さんが、土地などを売っては、共同生活に必要な日々の食べ物を手に入れていました。
そういう背景の中です。
使徒言行録(5:1-11)に、アナニアと言う人が 同じように土地を売ったお金を献金した物語があります。アナニアは、土地を売ったお金の全額を差出したように言いますが、一部のお金しか差し出しませんでした。そのことを聖霊の働きで知ったペトロが、アナニアを咎めたところ、アナニアは死んでしまいます。せっかくの献金なのに、どうしてペトロはアナニアをとがめたのでしょうか?
ペトロは、アナニアが富を全部出さなかったことを咎めたのではありません。事実をアナニアが言わなかったことを咎めたのです。アナニアの持っていた富は、アナニアに管理がゆだねられています。決してアナニアは、悪徳の富に仕えたわけではありませんが、「評判をえるために、心を神ならぬ者に売った」のです。そういう意味で、物欲の神に仕えてしまったともいえるでしょう。
現代の私たち一般人の多くは、「悪徳の富(や神)には仕えはていない」と思います。しかし、悩み事は多いです。空の鳥は、何も明日のことを悩んでいません。しかし、しっかり養われています。野の花はどうやって着飾るかを悩んだりしませんが、十分美しく装っています。必要なことは、神様が備えてくださるからです。
「神様が備えてくれる。」と言うこと、黙っていても神様が備えてくれるというのは、少し無責任と 感じることもあると思います。本当に、何もしなくてよいのか?と 責任感のある方ならば思われるでしょう。
そこに、もう一つ何か必要なことがありそうです。
例えば、今日のみ言葉に倣って、こんなことを考えたとします。
「今日のことは今日。明日は明日。どんなに悩んだとしても、何も変わることがないのだから、悩んでもしかたがない。明日の事ではなく、今日の事だけ考えて、精一杯生きたら良いじゃないか。」
それでも、神様は私たちを空の鳥のように養っては下さいます。けれど、それ以上のことを神様が、私たちの上に起こされるのでしょうか?。私たちは、空の鳥以上に神様に顧みて頂けるのだと言う、その み言葉を信じて良いと思います。
私たちは、思い悩むことは、必要はありません。しかし、神様に顧みていただくようにお願いすることは必要だと思います。
神様にお願いして、神様にどうしたら良いかを聞いて、神様から答をもらう、そしてその答えを選び取る。そのためには、祈りが必要です。それが、「神様に仕える」ことだと信じます。
最後に第二次世界大戦中のドイツの神学者D.ボンフェッファーが「仕えること」について書いていますので紹介します。(「共に生きる」(p116)) キリスト者は、もはや自分を賢い者とみることはできないので、自分自身の計画や意図をも取るに足らないものと考えるであろうし、また自分の意志が、隣人の出会いの中で破られるのを、良いことだと知るであろう。彼は、自分でこうしたいことに固執するよりも、隣人の意志をより重要なこと、より切実なことと思うように心を向けられる。自分の計画が妨げられることで、どういう実害が生じるであろうか。自分の意志を通すよりも、隣り人に仕えることの方が、さらに良いことではないか。
しかし、他者の意志だけではなく、他者の名誉もまた、わたし自身のものより重大である。・・・
神様に仕える事、イエス様に仕えることは、このようなことなのだと思います。
どんなときも、イエス様に聞いて祈ることで、神様に仕えていきましょう。