1.秘められた計画
パウロは、ここから急に話題を変えます。これまでの話題を一旦中断して、別の話題に移っていきます。こうした書き方はパウロによく見られます。パウロは手紙を力強く書きすすめているとき、書いている内容に没頭して熱くなっていきます。ところが、まもなく新しいことがらが彼の心をとらえはじめます。そういう意味で、パウロ自身が霊的であり、また聖霊がパウロを導いていたと言えるのでしょう。
執筆を再開したパウロは、福音は人間から出た教えではないことを強調します。福音は神様の御心によって、世界中を祝福されたものとするために、広められているのです。パウロが働くのもまた、神様の御心に沿ったのであって、パウロ自身が悩みながら出した結論として福音を宣べ伝えはじめたのではないのです。神様は使徒や預言者たちに「秘められた計画」を明らかにしました。その「秘められた計画」は、神様の御意思として、はじめから存在したものです。神様のもともとの計画は、すべての人をキリストの贖いによって、ひとつの民として神の国に招くことでした。この計画は、旧約聖書の時代を通して、ずっと隠されてきました。神様は救いのみ業を特定の民の中で準備します。イスラエルが、神様の民とされ、他の諸国民は、後の順番となっていました。神様の「秘められた計画」に基づいて、万事はただひとつの時、ひとつの大いなる出来事へと向かっていきます。
この計画によれば、堕落した人間世界(罪深く、自分で立ち直れない人間)は、全てがキリストにあって罪があがなわれ、その結果として、ユダヤ人も異邦人も一緒にキリストの教会を形成するようになります。キリストのみ業は、ただひとつの国民や数人の特別な人物だけに関わるものではなく、世界全体を包み込む広がりをもっています。
いくつかのわずかな言葉によって、「エフェソの信徒への手紙」は私たちに聖書全体を読むために情報を提供してくれます。旧約聖書全体は「イエス・キリスト」という未来を目指して進んでいきます。だから、神様の大いなる救いの御計画こそが旧約聖書の核心的な内容「秘められた計画」です。そして、この「秘められた計画」は、現代の私たちにとって大切なものなのです。
ところで、旧約聖書は親しみをもつような書物ではありません。しかし「エフェソの信徒への手紙」を読むときに、私たちはこのことを根本的に考えなおす機会となります。聖書全体は、その難解な箇所や暴力的な描写さえも含めて、「キリストの大いなる和解のみ業」について語っています。十字架の死によってキリストが全人類の罪を一身に引き受けてくださったおかげで、罪深い私たち人間と義で聖なる神様との間に和解がもたらされました。
この「秘められた計画」に仕える者を、神様は「僕」として召されます。召される人には、必要な力量の持ち主であるかどうか、ということは要求されていません。また、神様の召しによって、召された人が他の人々よりも高い地位になるわけでもありません。パウロは、自分の人生を通して神様の働きをはっきりと見ていました。パウロには、キリストと神様の教会を迫害したという暗い過去があります。この過去がありながら、神様はパウロを召しました。そして、パウロも、神様の召しによって真反対の生き方になることを受け入れ、福音の働きをしてきました。こうして、パウロは神様の恵みのみに頼り、常に謙虚に仕事をするように整えられました。このように神様の召しに応じて、神様の恵みに導かれてこそ福音伝道ができるように導かれるのです。また、神様に忠実であろうとするときに、私たち自身や教会全体に起こりうる問題にも、神様の恵みに頼ることによって、乗り越えられるのです。
2.使徒について
ここで、「教会の職務」を話題にします。使徒についてです。私たちの理解によれば、「使徒職」とは、この地上でイエス・キリストと直接に会った弟子のことを指します。これは、イエス様が地上で活動していたときのことであり、また使徒を任命するような決まりも習慣もないことから、当然、現在の教会には使徒はいません。私たちはもはや「新しい使徒」を選んだりはしないし、またそのような存在は不要なのです。なぜなら、聖書に書かれてある預言者たちと使徒たちで十分だからです。私たちはこの原則的な考え方を守りたいと思います。それによってこそ、教会は「使徒的」な教会たりうるからです。使徒的な教会とは、使徒たちと同じ信仰を保持し続ける教会のことです。
神様はパウロを僕として召してくださいました。それはパウロにとって、鞭で打たれることや、生命の危険に身をさらすことや、鎖につながれることや、しまいには死ぬことを意味していました。パウロはカイザリヤの牢獄に二年間閉じ込められました。もともと病気持ちであったパウロは、つらい期間であったでしょう。また、「エフェソの信徒への手紙」が書かれた頃には、獄中生活で、さらにパウロの健康が蝕まれていたことでしょう。ところが、手紙の言葉には恨みがましい響きがまったくありません。それどころか、パウロは自分が受けた「召し」を大いに喜んでいます。彼以前の世代の人々には「秘められた計画」だったことをはっきりと告げ知らせる僕として、神様はパウロを召してくださったからです。パウロはこのような「特別待遇」(と「迫害」)を受けることを、深く感謝しているのでした。
現代に生きる私たちは、鎖につながれた使徒の喜びに満ちた言葉を、どう読むのでしょうか。どうすれば私たちは「エフェソの信徒への手紙」から見えてくる パウロの感謝と喜びを自分のものにできるのでしょうか。私たちは、実はその答えを知っています。パウロが実践したように、神様の恵みと愛の無限の素晴らしさにより深く向かい合っていくときに、それは可能になるのです。そこに「エフェソの信徒への手紙」の秘める力があります。それは、神様はわたしを愛しており、その愛はわたしが理解できないほど大きなものだ、という真実です。
『3:12 わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。3:13 だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。』