2025年 7月 6日 主日礼拝
『神様の言葉に聞く』
聖書 エレミヤ書18:1-17
今日は、バビロンの支配に対してユダの国が反乱を起こしていたころの預言者エレミヤの物語です。
『38:2 「主はこう言われる。この都にとどまる者は、剣、飢饉、疫病で死ぬ。しかし、出てカルデア軍に投降する者は生き残る。命だけは助かって生き残る。38:3 主はこう言われる。この都は必ずバビロンの王の軍隊の手に落ち、占領される。』
このエレミヤの預言は、バビロンに反乱を起こそうとしている4人の将軍の前で行われました。数いる預言者たちのなかで、エレミヤだけは、忖度せずに神様のみ言葉をそのまま伝えたのです。
さて、このときのユダの王様は、ゼデキヤ王です。ゼデキヤ王はユダ王国の最後の王様で、BC597年からBC587年の在位でした。このころのユダ王国は、エジプトとバビロンの2つの大国に挟まれていました。それでも、ゼデキヤの父親であるヨシア王の時は、(BC640-BC609)独立国家でした。ところが、ヨシア王は、アッシリアを攻めるために通りかかったエジプトのネコ2世に戦いを挑んで、戦死してしまいます。そこから、ユダ王国の禍がやって来るわけです。ヨシア王の跡を継いだのがゼデキヤの兄エホアハズ(BC609)です。しかし、エジプトのネコ2世によって王位を下ろされます。代わりに、エホアハズの異母兄弟エホヤキム(BC609-BC598)が王様になりました。つまり、ユダ王国はエジプトに支配されたわけです。その後、バビロンの勢力が強くなってきたので、エホヤキムは3年間だけバビロンに仕えました。しかし、本心から仕えたのではなかったので、やがて反乱を起こしてしまいます。その結果エホヤキムは、バビロンに連行され、彼の子供のエホヤキンが即位します。しかし、バビロンはそれを許しませんでした。エホヤキンを神殿の財宝と一緒にバビロンに連行したのです。その代わりとして、叔父のゼデキヤが王様になりました。つまり、ユダ王国はバビロンから略奪され、再びバビロンの支配を受けました。それにもかかわらず、ユダ王国はエジプトと手を結んで反乱を企てます。その結果、ユダ王国は完全に滅ぼされたのです。さらに、バビロン捕囚と言う大きな悲劇の中にユダの国民を、置いてしまいました。ゼデキヤ自身もひどい目にあっています。目の前で子供を虐殺され、両眼を抉り取られ、死ぬまで鎖につながれました。
ゼデキヤ王には、特別な預言者がいました。エレミヤです。エレミヤは、神様の言葉をゼデキヤ王に伝えたのですが、王様はそれを聞き入れませんでした。ゼデキヤがバビロンに反乱を起こしたその決断は、預言者エレミヤの言葉、つまり神様の言葉を聞かなかった結果だと言えます。エレミヤ書38章に書かれていますゼデキヤの最後の決断のときも、ゼデキヤは神様の言葉に聞きませんでした。その結果として、ユダの国は神様の審きを受けたのです。
エレミヤは、以前からゼデキヤ王の監視の庭 つまり牢獄に拘留されていました。大勢の預言者たちは、ゼデキヤ王に心地良い預言をしたのですが、エレミヤだけは違いました。このときも、エレミヤはカルデア(バビロン)軍による敗北を告げています。ゼデキヤ王は、エレミヤの預言を無視しました。しかし、実は気にしています。こんな記事もありました。
エレミヤ『37:17 ゼデキヤ王は使者を送ってエレミヤを連れて来させ、宮廷でひそかに尋ねた。「主から何か言葉があったか。」エレミヤは答えた。「ありました。バビロンの王の手にあなたは渡されます。」』
バビロンと戦うことを訴える反バビロン派の将軍たちは、こういったエレミヤの言葉を聞いて、ゼデキヤ王のところにやって来ました。そして、エレミヤが「兵士と民衆の士気を挫き」、「平和を願わず災いを望んでいる」と訴えて、エレミヤを死刑にするよう求めます。もともと、バビロンのネブカドネツァルがお飾りの王様として置いたゼデキヤは、民からも将軍たちからも軽く見られていました。ですから、王様であるにもかかわらず、将軍たちを無視することができません。ゼデキヤ王は、エレミヤを彼らに預けてしまいます。
将軍たちはエレミヤを再び捕らえ、監視の庭にある水溜めへ綱でつり降ろします。これは、ほぼ、殺されることを意味しています。幸い、雨の降らない乾季であったので、穴の底には泥がたまっている程度でした。ですから、エレミヤはすぐには命を失うことがありません。しかし、年齢が、既に60歳代半ばに達していたとことを考えると、いずれ命が心配です。将軍たちは、エレミヤの命を直接奪うことをせず、自力で助かることがないように、こんな仕打ちをしたのだと思われます。
エレミヤが穴に投げ入れられたことを知ったクシュ(エチオピア)人の宦官エベド・メレクは、ゼデキヤ王にエレミヤの救出を嘆願しました。(エベド・メレクという名は「王の僕」と言う意味です。)そうでなかったら、エレミヤはそこで最期を迎えていたのでしょう。そこで、ゼデキヤ王が「三十人の者を連れて行くように」命じました。エレミヤを穴から救い出すのに、手伝いの男性が三人もいれば十分です。それなのに大勢で行くようにと命じたのは、エレミヤを殺そうとする人々に見つかっても、邪魔されないためだったのでしょう。
エベド・メレクは、エレミヤの体が傷つかないように、「古着とぼろ切れを脇の下にはさんで、綱にあてがい」、エレミヤを穴から救い出しました。
ところで、この救出劇は、神様が約束していたことでした。直接エレミヤを助けたのはエベド・メレクですが、エレミヤを助けるために、彼を動かしたのは神様です。神様は、エレミヤを通して、エベド・メレクにこう告げたのです。
エレミヤ『39:15 エレミヤに主の言葉が臨んだ。それは、彼が監視の庭に監禁されているときのことであった。39:16 「クシュ人エベド・メレクのもとに赴いて告げよ。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ、わたしはこの都について告げたわたしの言葉を実現させる。それは災いであって、幸いではない。その日には、あなたの見ている前でこれらのことが起こる。39:17 しかし、その日に、わたしはあなたを救い出す、と主は言われる。あなたが恐れている人々の手に渡されることはない。39:18 わたしは必ずあなたを救う。剣にかけられることはなく、命だけは助かって生き残る。あなたがわたしを信頼したからである、と主は言われる。」』
このように、エレミヤを通して神様はエベド・メレクに「助ける」と伝えていました。エベド・メレクを神様ご自身が助け出す と。・・・ユダの国全てが失われようとしているときに、神様はエレミヤを助けたエベド・メレクを助けると宣言していたのです。その理由が、「私を信頼したから」・・・つまり、これはエレミヤを助けたのが、神様の計画であったことがうかがわれます。
エレミヤは、エベド・メレクによって穴から助け出されましたが、相変わらず監視の庭に留め置かれます。殺されなかっただけで、彼は常に監視されていました。一方、ゼデキヤ王は、エルサレムを攻めるバビロンの軍隊を恐れました。「ゼデキヤ王がバビロンに渡される」とエレミヤが預言していたからです。彼は、反バビロン派の将軍たちの目を気にしながら、エレミヤの言葉をもう一度確かめたいと思いを抱きました。そこで、ゼデキヤ王はこっそりとエレミヤに会うため、使者を遣わします。エレミヤを主の神殿の第三の入り口に呼び出しました。そこは、神殿の一番奥の広場の入口にある門だと思われます。ゼデキヤ王は、エレミヤに「あなたに尋ねたいことがある。何も隠さずに話してくれ」と言います。このゼデキヤ王が尋ねたのは、神様の言葉のことです。エレミヤが取り次いだ神様の言葉を、受け入れないゼデキヤ王です。自分に心地が良い言葉を聞きたかったのです。
エレミヤはこれまで何度も、ゼデキヤ王に神様の言葉を告げてきました。しかし、ゼデキヤ王にとって都合の悪い言葉ですから、神様の言葉として真剣に聞き従おうとはしません。そればかりか、ゼデキヤ王は反バビロンの将軍たちにエレミヤの身を預けて、彼の命を危険にさらしました。ですからエレミヤは、言います。
『38:15~もし、わたしが率直に申し上げれば、あなたはわたしを殺そうとされるのではないですか。仮に進言申し上げても、お聞きにはなりますまい。』
ゼデキヤ王は、エレミヤのこの答えに対して、神様の名にかけて、「エレミヤを殺すことも、エレミヤの命を狙う者に引き渡すこともしない」と誓います。それは、ある意味 答えによっては殺す との脅しでした。ゼデキヤは、彼の都合のいいことを エレミヤに言ってほしかったのです。しかし、エレミヤの答えは変わりません。
『イスラエルの神、万軍の神なる主はこう言われる。もし、あなたがバビロンの王の将軍たちに降伏するなら、命は助かり、都は火で焼かれずに済む。また、あなたは家族と共に生き残る。』
と、エレミヤは、告げます。バビロン軍に敗れる前に王自らが降伏して、生き残る道を選びなさい と言うことです。そうすれば、都も火で焼かれずにすむし、家族も生き残る、・・・とゼデキヤ王に告げたわけです。
このエレミヤの言葉を、ゼデキヤは受け入れませんでした。・・・ 結局ゼデキヤは、バビロンに降伏することもなく、勇敢に戦うこともなく、逃げ出しました。神様の救いの言葉に委ねなかったのです。せっかく、エレミヤから決断を促す言葉、神様の言葉を聞く機会があったにもかかわらず、ゼデキヤ王は聞きませんでした。神様の用意した救いに与るのではなく、都合の悪いことから逃げ出した。・・・そして家族もエルサレムの町も、そして視力も、自由も失うことになってしまったのです。
一方で、エレミヤはバビロンに占領されるまで監視の庭に留め置かれます。それでも、神様の言葉がエレミヤに留まり、エレミヤを守りました。それは実に皮肉な結果です。御言葉に聞き従わない王様と国は滅びました。しかし、神様の言葉を固く守って誠実に語った預言者は生き残り、その神様の言葉は語り継がれたのです。その、神様の言葉について、約600年後にイエス様は「種」にたとえて教えています。
ルカ『8:11 「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。~8:15 良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」』
イエス様は、私たちを救うために、み言葉を語りました。実を結ぶかどうかは、私たちが善い心をもってみ言葉を聞くかどうかです。その善い心は、イエス様に祈って求めなければ手に入りません。イエス様の蒔いた種が実を結ぶために、イエス様に委ねて、そして祈ってまいりましょう。