申命記とは?
モーセ五書の最後の書簡で、ヘブライ語で『デヴァリーム:devarim』と呼ばれます。これは「言葉」という意味です。ギリシア語では『デウテロノミオン:Δευτερονόμιον』)の名前で呼ばれています。意味としては、「第二の律法」です。これは七十人訳の訳者が17章18節にある「律法の写し」という言葉を「第二の律法」という意味に誤訳したことから始まっています。日本語における『申命記』という書名は漢語訳から来ており、「繰り返し命じる」という意味です。
モーセが書いたものがヨシヤ王の時代に発見されたと列王記下は伝えていますが、宗教改革を行ったヨシヤ王によって、作出されたとも言われています。
王下『23:24 ヨシヤはまた口寄せ、霊媒、テラフィム、偶像、ユダの地とエルサレムに見られる憎むべきものを一掃した。こうして彼は祭司ヒルキヤが主の神殿で見つけた書に記されている律法の言葉を実行した。』
1.十戒のさずけられた背景
1-5節は、「十戒」が授けられた背景と、現在私たちがこの書簡を持つ意味について、出エジプト記19章-20章とは全く違った所感を書き留めています。
『5:3 主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではなく、今ここに生きている我々すべてと結ばれた。』
この記述は、この契約(十戒)が、過去のもので先祖の時代に結ばれたものではなく、今、生きている者たちとも結び続けている契約であることを明らかにしています。シナイ山で啓示を受けて、十戒を授かった世代の人々が死に、すでに過去のことのようにされてしまいそうな現実の中で、神様の契約が、現在においても有効であることを、ここで語っています。同じような表現がほかの箇所にも見られます。
申命記『29:13 わたしはあなたたちとだけ、呪いの誓いを伴うこの契約を結ぶのではなく、29:14 今日、ここで、我々の神、主の御前に我々と共に立っている者とも、今日、ここに我々と共にいない者とも結ぶのである。』
ここでは、出エジプトにおける救済の出来事との関わりを、そこに立ち会っていなかった将来の人々にも、自分なりに理解し受け入れなければならないことが、語られています。さらに、その後、シナイ山での出来事を、神様と人との間に立ったモーセの役割について、強調しています。
『5:5 わたしはそのとき、主とあなたたちの間に立って主の言葉を告げた。あなたたちが火を恐れて山に登らなかったからである。』
モーセがまず独りで十戒の啓示を受け取り、それをイスラエルに伝えました。それをもって、主が全イスラエルに語りかけたことになっています。
申命記『4:15 あなたたちは自らよく注意しなさい。主がホレブで火の中から語られた日、あなたたちは何の形も見なかった。』
2.十戒
6節-21節に記されている十戒は、出エジプト記20章に記されている十戒と大きく異なっているところがあります。祭儀の中で律法を朗読する慣習から申命記はできていると思われ、その違いは、安息日の戒めの理由づけにあります。
『5:6 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。』
十戒は、神様の自己紹介で始まっています。この出だしがあるので、祭儀に起源をもつのではなく、十戒が先にあって、それを祭儀に使ったという事になります。旧約聖書によく見られる自己紹介の形式を使って、神様(一人称表現)である「わたし」が祭儀集会の現前に現れ、自らの民に向かって語りかけているといった祭儀なのであります。十戒は、エジプトから解放された時、主(ヤハウェ)とイスラエルの間に確立された結びつきを引き出して、語り始めます。このことは、十戒を理解する上でたいへん重要です。今ここで語りかけている神様は、既に遥か昔に、その救済の意志を、主の民とされたイスラエル全体に知られている出エジプトの出来事で、示された神様です。この5:6の、一文が、「基本となる宣言」で、その後に十戒が続きます。
第一戒は、何か他の神的な力に仕えることを禁じています。第二戒の偶像禁止の戒めは、「像」が神性を示すことから考えねばならりません。この禁止が、どのような形(動物、天体、人間等々の形)によってであれ、ヤハウェを像に似せて象ることはできない、と否定しているのです。この世界は、あくまでも神様ヤハウェの被造物であり、神様が創造したものとして、栄光を示すものです。だから、創造されたものがヤハウェ自身になり変わる、などということは決してあり得ないのです。
第三戒(11節)は、ヤハウェの名の濫用を禁じています。「みだりに」という語は、ごく古い時代には「呪文」を唱える意味をもっていたといわれています。どの時代でも、イスラエルは、神様の名を借りたり、神様の力を利用しようとする誘惑にかられました。また、私的な利害のために神様の力を働かせる誘惑にかられました。だから、この禁止命令には、「誘惑に負けることは、神様の名を冒涜する罪である」ことを明らかにしています。
そして、安息日の規定ですが、申命記の十戒は、出エジプト記20章11節とは全く違う仕方で安息日の理由づけを行っています。出エジプト記では、創造の時に神が七日目に休んだことが安息日の根拠としています。しかし、申命記の十戒は、イスラエルが自らエジプトで苦役を味わったことをもって、安息日の理由としています。