2025年 4月27日 主日礼拝
『イエスは生きておられる』
聖書 ルカ24:13-35
先週は、イースターの礼拝を持ちました。今日の聖書の箇所は、イエス様が復活したその日の午後の事です。ここに登場するのは、イエス様の二人の弟子です。この二人はイエス様が十字架に掛けられたときには、遠くから見守っていたと思われます。そして、イエス様が復活した日曜日には、エルサレムから60スタディオン(185m×60≒11km)北西に行ったエマオの街に向かっています。エルサレムから、エマオまでは下りなので、3時間くらいの旅になります。
さて、安息日が明けた日曜日に、二人は墓にイエス様の遺体がないこと、「天使が『イエスは生きておられる』」と告げたことを知りました。さらに、ペトロが墓に行って確かめたとも言っています。ですから、この二人は、復活の日にほかの弟子たちと会ってから、エルサレムを出発したと思われます。そして、夕方にはエマオにつきました。(次の街リダまでは、倍以上の距離がありますから、夜中になってしまいます。だから、エマオに泊まろうとします。)
ところで、この二人は、どこへ行く予定だったのでしょうか?何のために復活の日にエルサレムを離れたのでしょうか?二人は、イエス様が十字架につけられ、死んで、墓に葬られたことは見て知っています。しかし、イエス様が復活した姿は、見ていません。伝え聞きでは、イエス様が墓から消えたのは事実らしい。でも、「三日目によみがえる」とのイエス様の予告が成就したとは、考えてもいませんでした。
二人の弟子たちは、歩きながらここ数日に起こったことについて、話し合っていました。「イエスは生きておられる」との良い知らせがあったのに、二人には希望がありませんでした。 それは、イエス様が近づいて来た時の記事から、うかがい知れます。
『24:17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。』
二人は、話しかけて来たその人がイエス様であることに、気づいていません。そして、暗い顔をして立ち止まります。この二人はイエス様が十字架で死んだことをまだ受けとめ切れていないのです。ましてや、「イエスは生きておられる」という知らせに、困惑していたのだと思います。二人は、つい数日前まで、イエス様に希望を抱いていました。それなのに、イエス様は十字架で殺されてしまいました。何の罪を犯したわけでもないのにです。今まで、何度も奇跡を起こしてきたイエス様ですが、「十字架から降りてくる」・・・そのような奇跡は起こりませんでした。・・・そして安息日の次の朝、イエス様の遺体が、墓から無くなったのです。いったい誰が何のために遺体を動かしたのか? この二人の弟子には、わからないことだらけです。二人の弟子は、たまたま話かけてきた道ずれの人に、イエス様のことを話しました。
二人の弟子が言ったことは、次の2つです。
一つ目。ナザレのイエスは、行いにも言葉にも力のある預言者でした。だから、わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放するのだと思っていました。それなのに、祭司長たちや議員たちは、イエスを死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。
二つ目。十字架の出来事から3日目に、婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体がありませんでした。そのとき、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。また、仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。
まず、一つ目のイエス様の十字架の出来事についてです。二人は、イエス様のことをイスラエルを解放してくれる預言者として期待していたようです。具体的には、ローマの支配から解放する指導者 と思っていたわけです。
そして、3日目の復活について。この二人は、イエス様から受難と復活のことを教えられていました。しかし、理解はしていません。それだから、婦人たちからの『イエスは生きておられる』との知らせも信じなかったのです。ルカ(24:12節)には、ペトロが空の墓を見に行ったとありますので、墓が空であった事は、事実として受け止めていたといえます。しかし、この二人の弟子たちは、『イエスは生きておられる』との天使たちの言葉が理解できません。だから、「イエス様は亡くなった」と、暗い表情で、エマオの街に向けて下っていたのです。彼ら二人の夢は破れて、故郷へと帰ったということでしょう。
さて、エマオまでの緩い下り道で、二人の弟子は、イエス様に出会いました。そこで二人は、最近起こった出来事を話し合います。二人は、イエス様から予告されていたことを忘れていたので、彼らにとっては思いもよらぬことが起ったのです。しかし、その出来事は、聖書に預言されていました。
イエス様は、この二人の弟子の話を聞いて、なげきます。
『24:25 ~「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。』
イエス様は、改めて、二人に教えはじめました。たぶん、エマオに着くまでの2,3時間の間、聖書にある「イエス様のこと」を教えたのだと思います。
ここに書かれているモーセとは、モーセ五書すなわち創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のことです。また、預言者とは、ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記ならびに、イザヤ書、エレミア書、エゼキエル書などの預言者が書いたと言われるものです。イエス様は、これらの記事を示しながら、ご自身にかかわる記事を教えたのです。
そのときイエス様が話しただろう聖書の箇所を、いくつか挙げてみましょう。
出エジプト記12章の「過ぎ越し(the Pascal Lamb)」では、「小羊の血をイスラエルの民の家の鴨居に塗れば、禍(わざわい)から守られる」このことを神様は約束しました。そして約束通り、神様がエジプトにいる初子を打ったとき、イスラエルは禍を免れたのです。・・・小羊とは、イエス様を指す言葉でもあります。私たちはイエス・キリストの十字架で流された血によって、私たちの罪が贖われ、罪が赦されています。その贖いによる赦しは、モーセの時代から、預言され、約束されていたのです。
また、レビ記16章では、生贄による贖いの儀式が書かれています。旧約の時代は、罪の贖いのために、生きた動物を生贄に供えます。イエス様の十字架の出来事は、神の小羊であるイエス様が、その罪の贖いのための生贄になったのです。
申命記では『18:15 あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。』
このように神様は、モーセのような預言者を与えると約束していました。それは、具体的に、イザヤ書に記されています。
イザヤ『7:14 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。』
インマヌエルとは、「神は共にいます」との意味です。こうして、神様は私たちと共におられ、そしてイエス様を与えてくださることを約束しています。そして、イエス様の権威については、このように預言されています。
イザヤ『9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。』
ルカによる福音書には、イエス様が弟子たちに「自らが犯罪人の一人となる事」を伝える記事があります。二人の弟子も、この教えを聞いていたはずです。
ルカ22:37 『言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。』このイエス様の言葉は、このイザヤ書が成就するとの予告です。
イザヤ『53:12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。』
そして、弟子たちが塵尻になってしまうことも、預言されていました。
ゼカリヤ書13:7 『剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ/わたしの同僚であった男に立ち向かえと/万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。わたしは、また手を返して小さいものを撃つ。』
羊飼いはメシアであるイエス様を、羊の群れは弟子たちを指します。読み替えてみましょう。
神様は、「メシアを打ちなさい、弟子たちは散らされていくだろう」と、告げ知らせたのです。
さて、二人の弟子たちは、イエス様の教えを受けている間、「心が燃えていました」そして、エマオにつくと、夕方だったので、先を急ぐイエス様を引き留めて、一緒に泊まるように勧めます。そこで、食事を取るのですが、パンを取り分けるイエス様の所作で、ようやくその方がイエス様だと分かったようです。すると、突然、イエス様の姿が見えなくなりました。そこで二人の弟子は、日が暮れているのにも関わらず、エルサレムに急ぎ戻ります。「イエスは生きておられる」このことを見て知ったからです。この良い知らせを伝えるために急いだ。そして、何よりも、イエス様によって心が燃やされていたのです。イエス様のみ言葉を聞いて、力を与えられ、二人のうちにイエス様が宿ったのです。「イエス様が生きておられる」ことを信じて、そしてみ言葉に学び、イエス様に倣うならば、心が燃やされます。私たちの内にいつもいてくださる。そして、寄り添ってくださるイエス様に感謝しましょう。