2025年 9月 7日 主日礼拝
「イエス様に倣う」
聖書 ルカ14:25-35
今日のみ言葉には、2つの見出しがありますが、一つの繋がった物語です。つまり、弟子の条件を満たさない弟子は、「塩気のなくなった塩」と同じで、何の役にも立たず、投げ捨てるしかない!。 こんな厳しいことを、イエス様は弟子たちに話していたのです。
『14:25 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。』
大勢の群衆が、弟子になろうとして、イエス様について来ました。すると、イエス様は群衆の方を振り向いて、「弟子の条件」について話し出します。大変厳しい条件を二つ、イエス様が示しました。一つ目は、
『14:26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。』
そして二つめは、
『14:27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。』
この条件では、だれもイエス様の弟子になれません。とても、出来そうもないからです。さらに厄介なことに、イエス様の説明した「たとえ」が良くわかりません。そんな困惑があるなか、イエス様はこのように断言しました。
『14:33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」』
とても厳しい言葉ですね。そして、イエス様は「塩気のなくなった塩」のたとえを話しました。このたとえも、「弟子の条件」の続きなはずです。順番に、イエス様のたとえを読み解いてまいりましょう。
まず、最初の「弟子の条件」について、少し理解しておきたいと思います。イエス様の示した二つの条件は、どちらも、弟子になる覚悟についてです。弟子になる準備は容易なことではなく、相当な覚悟が必要だからです。それを、イエス様は塔の建設と 強い国との戦争という二つの国家的規模の決断にたとえています。まず塔の建設を考えると、どれだけの費用と時間、そして労力がかかるか?その計画が練りあがって初めて、建設を始めることができます。塔の建設とは、すなわちイエス様の弟子として堅く立って行くことです。もし、計画が不十分なまま大きな塔をたてようとすると、資金不足、材料不足、人手不足を引き起こして、途中で挫折してしまいます。また、合理的な人なら、国の実力にあわせて、低い塔や壁の薄い塔を建てるかもしれません。しかし、そのような塔はイエス様の戦いには、向かないのです。イエス様の弟子として、信仰の砦である塔として立つ。そのためには、知恵を尽くして、そして財力も労力も 持っているものすべてをその働きに捧げてこそ、神の国の塔、信仰を守る塔となって、霊的な戦いに耐えられるのです。その信仰を守る塔となる。その働きは、十字架を背負うことと同じことを意味します。命を懸けて背負う、神様から与えられる使命だからです。
次に、二倍の勢力をもつ国との戦いのたとえです。 一般論で言えば、戦ったら負けそうなので、貢物を献上することで赦してもらう つまり和議を結ぶことが、良い判断だと言えます。なぜならば、戦うためにお城に塔をたくさん建てようにも、戦力の差は容易には補えないからです。しかし、問題があります。それは戦う目的です。信仰を守るための戦いは、避けるべきではありません。この霊的戦いは、クリスチャンとなった者の負うべき十字架です。ですからイエス様は言いました。
『14:33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」』
イエス様が十字架を負ったように、弟子も十字架を負うためには、すべてを捨てなければなりません。背中にほかのものが乗ったままでは、十字架は背負えないからです。
そこでイエス様は塩の話をしました。塩は古くから調味料としてだけではなく、食べものの腐敗防止用や洗剤の原料として使われていました。その特徴は、塩辛いことです。そして、塩は、きちんと保管しないと塩気が失われてしまいます。もし、塩が塩辛くなくなったら、味をつけられない、腐敗を防止できない、洗うことができない・・ということですから、当然、塩味のしない塩は価値がありません。イエス様はこの塩味のしない塩のたとえを用いて、弟子たちを励ましたのだと思います。「あなたがたは塩だ。御言葉にあなた方の塩で味付けをしなさい。世の腐敗は君たちが止めなさい、そして、この世をきれいにしなさい。」こんな、大事な働きをイエス様は弟子たちに求ているのです。
ところで、今日の聖書で、どうしても気になる部分があります。「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」の箇所です。
マタイでは、こんな記事でした。
マタイ『10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。』
マタイの場合、ルカより条件がやや緩い印象です。マタイは、「イエス様よりも家族を愛する者はふさわしくない」と書きました。それを、ルカは「家族を憎む」ように求めています。一族全員、そして自分を憎む。そのようなことをイエス様は、弟子たちに言いました。これは酷く厳しい言葉です。
ところで、なぜ「憎む」ことが弟子の条件なのでしょうか?。
私は、そうであってはならないと思いました。元のギリシャ語を見ますと、憎む(ミセオー:μισέω)は、「憎む」ことと「愛を減らす」ことの2つの意味があります。それで「愛を減らす」ことを採用してみると、次のような理解になります。親密な人および自分への愛をへらす、つまりイエス様の方をより愛する人。それがイエス様の弟子の条件だ、というわけです。
そこで、もう少し掘り下げて、「イエス様の弟子になるとはどういうことか?。」この原点に戻りたいと思います。
そこで注目したのは、「弟子は先生に倣うものだ」と一般的に言える事です。弟子が「先生のようになりたい」と思い、行動することは、普通だと言うことです。イエス様と弟子たちの関係でも、そうであったと思います。
このように、「弟子は先生に倣う」このことを前提として、話しを「憎む」ことに戻します。かけがえのない存在として、愛している人たちを「憎む」ことをイエス様は命じました。それは、だれでも「無理だ」と思うでしょう。愛する者を憎むように強いられても、こまってしまいます。それで、「無理」ならば、イエス様の言葉によると、「弟子ではありえない」ことになります。
イエス様の言う「弟子となる」とは、全てを捨て、イエス様の業に全てを捧げることです。しかし、私もみなさんも、そうすることができないのです。「試しに、愛する人全部を憎んでみなさい。」と もし誰かに言われたら、皆さんは、愛する人を憎もうとしますか?そんなことしないですね。愛する人を憎む。それは、だれでもできません。しかし、それ以上に出来ないこと不可能なことがあります。 それはイエス様の弟子になることです。・・・そう私は理解しました。イエス様の弟子になるとは、イエス様に倣うことです。それは、愛する人を憎むよりも、もっともっと困難なことなのです。・・・弟子となろうとしている人々は、イエス様を家族以上に愛し、そしてイエス様と同じように人々を愛さなけらばならないのです。その覚悟があるのか?と問われた弟子たしは、茫然としたでしょう。
イエス様は咎なくして十字架上で殺されました。イエス様には殺される理由はありません。しかし、イエス様は父なる神様の命令に従い、十字架にかけられました。そして、イエス様が十字架で死んで復活したがゆえに、私たちは罪が赦され、そして新しい命を得たのです。私たちが、赦されたのは、イエス様の弟子として立派だったからではありません。とうてい「弟子ではありえない」のにも関わらず、イエス様は私たちのために神様にとりなしたからなのです。そしてまた、イエス様は今も私たちをとりなし続けています。
ところで、「神様にとりなす」と言う意味では、私たちはイエス様に倣う「弟子」には、絶対になり得ません。イエス様を通してしか、祈ることができないからです。でも、できることがあります。塩気です。私たちがクリスチャンとして「塩気」つまり信仰を保つことです。それは、常に気を張っていることではありませんから、楽に聞いてください。私たちの願いは、「イエス様に倣う」ことです。それは、できもしない事ではあります。しかし、私たちは「イエス様に倣う」ことを望んでいます。だからそのことを、時々思い出してください。思い出したならば、それをイエス様に委ねてください。イエス様に祈れば、その「イエス様に倣う」私たちの塩気である信仰は保たれるのです。