2024年 7月 14日 主日礼拝
『わたしだ。恐れることはない。』
聖書 ヨハネによる福音書6:16-21
今日は、イエス様がガリラヤ湖の上を歩いたという記事からお話します。この記事は、マタイ(14:22-33)、マルコ(6:45-52)にもあり、5千人への給食の物語の直後の場面であります。まず、5千人への給食に向かった経緯を見てみましょう。マタイでは、バプテスマのヨハネが殺されたとの報告があった後のところです。
マタイ『14:13 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。』。 マルコの並行記事(6:31)では、多忙で食事をする暇もない弟子たちのために舟を出したとあります。一方で、ヨハネ(6:1)では、ガリラヤ湖の向こう岸に船で渡ったことだけがわかります。全部の情報を合わせると、イエス様が本拠地としていたカファルナウムの家からガリラヤ湖の向こう岸、何もない荒野に舟で渡ったのです。なお、ルカ(9:10)では、行き先としてベトサイダの町の名が挙げられています。ガリラヤ湖に流れ込むヨルダン川を、1.5kmほどさかのぼった東側にベトサイダはあります。なので、実際はガリラヤ湖の対岸に渡ったのではなく、カファルナウムからヨルダン川に向かって5kmくらい東に進んだわけですね。そのあと、北向きに川を1.5kmくらい上(のぼ)って対岸側についたということです。群衆はと言うと、イエス様を追いかけ、先回りしました。
ここで、ベトサイダに向った理由ですが、マタイではバプテスマのヨハネの死を知ったイエス様が、人里離れて祈るために向ったと読めます。また、マルコでは、食事をする暇もなかったので、弟子たちを休ませるために家を出たわけです。一方で、ルカには、そこに行く動機は書かれていません。ヨハネではどうか?というと、
『6:4 ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。』とあります。
と言うことですから、もともと過ぎ越しの食事をする予定だったと思われます。また、カファルナウムの家ではなく、人里離れた場所に行かなければならなかった事情が、5千人の給食の物語の最後の記事から伺えます。
ヨハネ『6:15 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。』
この記事から、イエス様は、特定の人々を避けていることがわかります。ベトサイダの荒野に行って過ぎ越しの食事をしようとしたのも、そのような理由だったのかもしれません。
さて、今日の箇所です。イエス様が山に退いた後、弟子たちだけでカファルナウムに向かいます。そこに、イエス様はいません。マタイやマルコの並行記事を見ますと、それはイエス様の指示でした。弟子たちを先に帰らせたのです。また、ヨハネのさきほどの記事から、特定の人々を避けるために、弟子たちだけで帰らせたことがわかります。ですから、弟子たちはイエス様がいないまま舟を出しました。ところが、『6:18 強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。』ます。当時のガリラヤの釣舟は、現存していまして、長さ27フィート(約8.2m)幅7.5フィート(約2.3m)。このサイズの舟は、ガリラヤ湖の嵐には、耐えられません。舟を出してから30スタディオン、つまり5km弱(1スタディイオンは185m)進んだところで、湖が荒れだし、舟が転覆しそうになったのです。しかも、暗い中ですから、舟から落ちたら絶望的です。そんな中、何者かが湖の上を歩いて来ます。・・・弟子たちは、この湖の上を歩く奇跡を目の当たりにしました。しかし、イエス様だとわからず、地獄の使者が来たように恐れます。そこで、イエス様は『「わたしだ。恐れることはない。」』と声を掛けます。嵐の中、その声を聞いた弟子たちはイエス様を舟に迎え入れました。そして、何事もなく、すぐにカファルナウムに着きます。
さて、この記事で、説明が難しいことがあります。イエス様が湖の上を歩いたという奇跡です。イエス様は何でもできる。と純粋にこの奇跡を信じる人もいるでしょう。また、物理的に有り得ないと否定する人もいます。それは、私たちの知っている限りの物理現象から見ると、あり得ないからであります。しかし、それは「私たちの知っている限り」の知識でしかありません。私たちは、この世のことの全てを知っているわけではないのです。むしろ、知らないことばかり。そして、知らないことは判断できません。だから、この世を創った神様を畏れ、自分の無知を知るべきであります。逆に、もし、自分の無知を認めないのであれば、「神様を畏れない」罪を犯していることになります。
このような奇跡については、聖書学者や理性を第一とする人たちは、理性的には受け入れないようです。なかには、「イエス様は岸辺近くの浅いところを歩いていた」等と言う先生もいました。しかし、無理につじつま合わせをする必要はありません。この現象が事実かどうかよりも、この記事の意図が大事だからです。まずは奇跡を否定するよりも、「著者には、そのように見えた」と考えてみましょう。少なくとも「そのように見えた」と証ししていることは、まぎれもない真実なのです。
さて、この場面で私たちは、他にも見逃していることがあります。
まず、5千人の群衆と過ぎ越しの食事をした意図です。この食事は、私たちの守る主の晩餐の原型です。主の晩餐は、バプテスマを受けた者が、イエス様の体であるパンと血である杯を受け取り、感謝を捧げ、イエス様が再臨するときまで、イエス様の業をお手伝いすることを約束するものです。この時、主の晩餐に与った弟子たちは、伝道に旅立つわけです。著者ヨハネには、そのように示されていたのです。そして、弟子たちだけで舟に乗り、出発すると、湖に嵐が来ます。波が高く、舟が沈みそうです。そして、これで最後。死ぬかもしれないとヨハネが怖がっていた時、そこにイエス様が現れました。それが、ヨハネの証しです。舟が木の葉のようにもまれて、恐怖にさいなまれていた時、本当にこれで終わりだと思ったとき、「イエス様助けてください」と祈った。すると、突然イエス様が思いがけない姿、そして思いがけない方法で、現れたのです。そのとき、平安が与えられました。ですから、この箇所は、元気を与えるメッセージなのであります。弟子たちが受けた困難は、荒波にもまれたことであります。それは、これからの伝道で起こる出来事を象徴しています。イエス様が復活して聖霊が降った後、弟子たちは伝道を始めました。その伝道は困難でした。そして、イエス様に祈りました。イエス様はいちばん困った時に来て下さった。その恵みをヨハネは証ししているのです。
人生の中では色々なことが起こります。夜の暗さは予想したとおりに毎日やってきますし、さらに加えて予期せぬ嵐も来ます。そんな困難が重なって困ったときに、私たちはイエス様と出会います。そして、具体的な解決は、イエス様の言葉を聞くことにあります。嵐の中で何もできなくても、イエス様に祈り、イエス様の言葉を聞いて信じることはできるのです。・・・
このヨハネによる福音書は、クリスチャンへの迫害があった時代に書かれました。私たちの近辺では、当時と比べ、迫害は少ないのかもしれません。しかし、私たちを脅(おびや)かす出来事は起こります。弟子たちは「驚き、そして恐れ」ました。湖の上を歩く者を見て「さらに恐怖」を抱いたのです。その時イエス様はこう言います。『わたしだ。恐れることはない。』このイエス様の言葉に弟子たちは安心したことでしょう。彼らは喜んでイエス様を迎えました。このとき、彼らは、「イエス様が来てくれたから、もう大丈夫」そう信じたのです。ですから、弟子たちの恐れは無くなりました。
『わたしだ。恐れることはない。』とのイエス様の言葉は、「わたしはここにいる、怖がるな大丈夫だ」との励ましであります。弟子たちは、イエス様の言葉を聞いて、受け入れて、そして主と共にある平安に与ったのです。
さて、弟子たちが嵐にあっているとき、人々はどこにいたでしょうか?5千人の給食のあと、人々は山に退いたイエス様を捜しました。そして、カファルナウムまで追ってきました。イエス様は彼らを前に、このように言います。
ヨハネ『6:26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。6:27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」』
人々はパンで満腹したからイエス様を捜しました。またもう一度パンに与って、満腹になろうとしたのです。たしかにイエス様は、パンを増やす奇跡、つまり しるしを見せました。しかし、人々の興味は、イエス様の示したしるしではなくて、食べ物であるパンそのものでした。おいしいものを食べ、楽しい思いをしたい。これは、誰でも思うことです。しかし、教会で出している食べ物は、「みことば」であり、神様への信仰であり、そして感謝の応答なのです。そういうイエス様のパンに与りたいですね。また私たちは、自分が満足するために生きるのではありません。私たちは、イエス様の福音を頂くように、また伝道のために働くように命令されているのです。
食べ物のパンを求めてイエス様を捜した人々には、残念です。このように自分たちの期待する神、つまり食べるパンを出してくれる神を求める。それでは、食べるパンで満腹になるだけです。それも、一時的な満足でしかありません。だから、求めるべきはイエス様ご自身なのです。人生の様々な嵐の中で、私たちはイエス様と出会います。イエス様はいつも寄り添って下さいます。しかし、私たちは、苦しいそのときになってイエス様に気づくのです。だからまず、イエス様の声を聞くことが大事です。次に、イエス様を信じで委ねることです。その真反対はいけません。それは、自分の期待をかなえてくれる神を求めること・・・その結果は、失望に終わるでしょう。私たちの要求は無限なので、満足出来ないのです。しかし、私たちが経験する予期せぬ出来事、そして恐れと不安のなかで、イエス様の声を聞いて、信じて、ゆだねる。そうするならば、イエス様が解決してくださるのです。「わたしはここにいる、怖がるな大丈夫だ」と言いながら。・・・
ですから、私たちがすべきことは、イエス様の言葉を信じて、喜び、そして自分たちの舟の中に迎えることだけです。それは、全てをイエス様に委ねることを表します。実際に、弟子たちはイエス様に委ねました。そして、嵐は治まり、目的地にたどりつくことが出来たのです。イエス様に祈り、イエス様の言葉に聞き、そしてイエス様の言葉を信じ、そしてイエス様に委ねる。そういう、信仰生活を目指しましょう。それが、私たちにとって 福音であります。