詩編150:1-6

チャペルコンサート挨拶

2022年 1016日 主日礼拝

 聖書 詩編106篇6-23

神の憐れみ

詩篇の中には神様の歴史的な物語があります。神様が神の民を導き、祝福した歴史であり、また民が神様に不従順であった歴史でもあります。神様は、イスラエルの民が本来あるべき姿を取り戻すよう、働きかけました。それは、イスラエルの民を出発点に立ち返らせ、神様に不従順な民を、神様に従う民に導き戻そうとしたことです。

 そのイスラエルの民族の基となるのがアブラハムの契約であり、出エジプトの出来事であり、シナイ山で神様と民が結んだ十戒と契約であります。その歴史の中に貫かれた神様の選び、そして契約に対する神様の恵みと真実、を、詩篇は歌います。 

 その神様の物語を告白した詩篇は、次の4篇です。


詩篇  78篇・・・出エジプトからダビデの時代までの神様の忍耐とあわれみ

詩篇105篇・・・アブラハムとの契約に対する神様の誠実さ 

詩篇106篇・・・イスラエルの不従順と、その罪に対する神様のあわれみ 

詩篇107篇・・・様々な危機に繰り返された神様の恵みに対する感謝 


この4つの詩篇では、神様のめぐみと真実を、歌っています。

 

 今日の聖書を理解する為には、旧約時代の主な出来事を知っておくことが重要です。 詩篇106篇の扱っている出来事は、イスラエルの歴史において、何度も罪を繰り返し犯してきた民のことであります。イスラエルの民は神様に対して罪(神様を信じない罪、神様が下さった律法を守らない罪、偶像等神以外のものを礼拝する罪)を、犯し続けました。しかし、神様は、イスラエルの民を憐れみました。(44から46節) また、神様はアブラハムと結んだ、契約(創世記17:4-14)を守りました。神様は真実のお方だからです。

創世記『17:7 わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。』との宣言から、神様はアブラハムとの契約を果たされたのです。


 また106編には、モーセとのとりなしの祈りがあります。それでも、イスラエルの民の罪は、この後の歴史で繰り返されます。そして、約2000年前にイエス様が降ってこられました。御子イエスの十字架上における ルカ『23:34~「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」~』とのとりなしの祈りによって、神様の赦しが成就したのです。そのとりなしの原点は「恵みの約束」です。詩篇105篇には、神様がご自身の民に対して働かれた、その御業について一つ一つが述べられています。一方で、詩106篇では、神様の民が歴史の中で多くの神様の御業を経験しながら、それでも「罪を犯し/不正を行い、主に逆らった。」(6節)と述べています。また、「御業を忘れ去り/神の計らいを待たず」(13節)「神を試みた。」(14節)とありますので、モーセのとりなしはイスラエルの民に充分に届かなかったと言えます。

 詩篇では、アブラハムとの契約、エジプト脱出の出来事、40年間の荒野の生活、カナンの地を得て、そしてバビロンの捕囚となるまでのほぼ全体で、神様の民は神様の導きに不誠実であったことを告白しています。神様は、その間、幾度となく民を救い出したのですが、イスラエルの民には通じませんでした。

詩篇『106:46~彼らは反抗し、思うままにふるまい/自分たちの罪によって堕落した。』のです。

 神様は、契約を守り、さらに民を憐れみました。真実の方だからです。それに対して、人間の態度は「不真実」に尽きます。真実の神様に対して、目を向けないからです。真実ではない。これが私たち人間の姿です。神の民であるイスラエルはバビロン捕囚の経験をしました。捕囚を通して自分たちの神様に対する不真実な姿を知ったのです。預言者たちの警告にもかかわらず、神様に従わなかった結果、一時的ではありますが、イスラエルはバビロンに渡されてしまったのです。

 歴史の中で何度も繰り返される人間の不真実(偶像礼拝の罪)、にもかかわらず、神様の真実は、一貫して、歴史の中を貫いています。それはアブラハムと交わした契約(永遠の契約)と憐れみのためです。神様の真実な愛に触れたとき、人は神様を信頼する者へと変えられていくのです。神様は、その時を楽しみに私たちを憐れんで下さるのです。捕囚から帰還した民たちは、神様の真実に向けて、回復を目指しました。まずやったのは、神殿の再建とモーセ五書の編纂でした。これで、真実の神様に立ち返るようにも見えました。しかし、神の御子であるイエス様が降って来られたとき、なんと再び、神様を受け入れず、神の子であるイエス様を裏切ってしまったのです。人間の不真実による神様の痛みは、御子イエス・キリストの十字架の出来事で、増し加えられました。人間の不真実にもかかわらず、イエス様は十字架で苦しんでいるさなかにも神様にとりなしをします。

ルカ『23:34~「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」~』


 さて、エジプトを脱出するとき、イスラエルの民は、罪を犯し、不正を行い、神様に逆らいました。エジプトを脱出しようとしているなか、後ろから軍隊に追われると、あわてだしました。そして、神様の導きを信じることができず、エジプトに帰りたいと不平を言いだします。何か自分たちに不都合なことが起こってしまうと、神様がこれまでしてくださったことをすべて忘れてしまって、神様の導きを疑ったのです。それでも、絶体絶命と言う状況の中、神様を疑うイスラエルの民に神様は手を差し伸べます。そのとき、葦の海は干上がりました。イスラエルの民は、水の引いたその深い淵を通って葦の海を渡ります。こうして民は、神様の導きによってエジプトの攻撃から逃れることができたのです。追ってきたエジプト軍は、葦の海に戻ってきた水に飲まれて、溺れ、全滅します。そのとき、イスラエルの民は、神様の導きを喜び、神様を賛美しました。ところがです。その喜びの出来事が終わると、たちまち神様への感謝を忘れ去ります。次第に、神様の導きを待たなくなります。それぞれが思い通りに要求をし、行動するわけです。例えば、飲み水がなければ、モーセに「我々に飲み水を与えよ」(出17:2)と苦情を言います。神様からの恵みによって、飲み水を今まで得られていたことを、全部忘れてしまって、当然の権利であるかのように、モーセに迫ったわけです。これは脅しでしかありません。モーセから見れば「神様を試している」態度でありました。イスラエルの民は、神様の恵みをすっかり忘れてしまって、のどが渇くと、「水を出してくれたら神様を信じる」「水を出してくれないなら、もう神様はいらない」などと考えていたのでしょう。イスラエルの民は、神様の力で水を出すようにモーセを挑発しに来るわけです。このときも、神様は民の願いをかなえました。この時のイスラエルの民は、神様を自分の都合で使おうとしているだけで、神様のことを信頼していないことは明白です。イスラエルの民の信仰は、弱かったのです。そこで神様は、水を与える代わりに、食べ物を減らします。そのような経緯もあって、イスラエルの民は、モーセとアロンをねたんでしまいました。その中心となったのが、ダタンとアビラムでした。結局ダタンとアビラムの仲間は、モーセとアロンに反逆します。(民26:9) このとき神様は、反乱を納めるため、神様に逆らう者を焼き尽くしてしまいます。それにしても、なぜ?そこまで苛烈なことを神様はなさるのでしょうか? それは、イスラエルの民が子牛の像を鋳て礼拝したからです。いま、イスラエルの民を救うために働いている神様の目の前で、禁止されている偶像を作り、礼拝しました。それは、神様を捨てたことを意味します。今イスラエルの民を助けるために働いている神様は、草をはむ牛、しかもその偶像よりも価値がないと宣言されてしまったことと変わりません。イスラエルの民は、自分たちを救ってくださっている神様を忘れ、人が造った偶像を選んだのです。エジプト脱出も、カナン(ノアの子ハムは、カナンの父)の地でのヨセフの出来事も、海を渡る奇跡も、イスラエルの民は忘れてしまったのです。


詩篇『106:23 主は彼らを滅ぼすと言われたが/主に選ばれた人モーセは/破れを担って御前に立ち/彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた。』

 この記事の出どころは出エジプト記(32:10-11)です。信仰が弱くて、自分勝手に欲望だけを神々に要求するイスラエルの民のために、モーセは、とりなしの祈りをします。そして神様は、それを聞かれました。


 そして今日の聖書の個所に戻ります。

『106:6 わたしたちは先祖と同じく罪を犯し/不正を行い、主に逆らった。』

モーセのとりなしの祈りがあったにもかかわらず、イスラエルの民の信仰は弱く、神様に逆らい続けたのです。


 神の民であるイスラエルはバビロン捕囚の経験をしました。モーセのとりなしの祈りも、イスラエルの民には届きませんでした。民は、神様に対する不真実な姿のままでいたのです。その結果、神様はイスラエルをバビロンに渡すことを決め、実行しました。それは、イスラエルの民が真に神様に立ち返るきっかけを作るためです。

 バビロン捕囚から帰ってきたイスラエルの民は神殿を再建しました。また、モーセ五書を編纂して、イスラエル民族の誇りを取り戻そうと努力しました。また、神殿が出来上がった時、モーセ五書を読み上げます。イスラエルの民が失っていたものが、こうして取り戻され始めたです。真実の神様に立ち返ってきたようにも見えます。しかし、そうではありません。事実神殿は、再建した直後から、泥棒の巣窟でした。また、律法を教える教師は、律法の精神をないがしろにしました。そして、神の御子であるイエス様が降って来られたときのことです。なんと再び、神様を受け入れず、神の子であるイエス様を十字架にかけ、殺してしまったのです。人間の不真実による神様の痛みは、イエス・キリストの十字架の出来事で、さらに増し加わりました。それでも、人間の不真実のために、十字架で苦しんでいるさなかにも、イエス様は神様にとりなしをしたのです。

ルカ『23:34~「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」~』

 神様は、徹底的に私たちを愛し、導いてくださいます。それでも、私たち人間は、真実の方である神様の完全な愛を受け止めることができないのです。何度も、そして何代にわたっても私たち人間は、そういう失敗を繰り返します。モーセのとりなしの祈りがあったその後も、私たち人間は神様に背き続けたのです。その信仰の弱い私たちのことを憐れに思い、神様は、私たちのためにイエス様をこの世に降されたのです。ですから私たちは、この神様の憐れみに与るために、祈るほかないのです。神様の憐れみを受けられるよう、イエス様に私たちをとりなして頂くことが、私たちの唯一の救いです。イエス様に信頼して、日々祈っていきましょう。