ルカ24:36-53

 弟子たちに現れる




שָׁלוֹםלָכֶם(シャーローム):ヘブライ語で「平和」を意味する言葉。ヘブライ語の挨拶のひとつでもあり、日本語の「こんにちは」に相当します。ルカによる福音書は、ギリシャ語のεἰρήνη(エイレネー)を使っています。意味は同じ「平和があるように」です。


1.弟子たちに現れる

 

 ヨハネによる福音書をみると、この時の弟子たちの様子が読み取れます。

ヨハネ『20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。』 

 弟子たちは、「イエス様の群れをユダヤ人たちが探して、十字架につけるのではないか?」と恐れていました。家の戸に鍵をかけ、誰も入れないようにして、一つの部屋に集まっていたのです。そして、婦人たちからは、イエス様が復活したことを聞かされましたし、ペトロからは、墓の中が空っぽで亜麻布しかなかったことも聞かされます。そして、エマオからクレオパが戻ってきて、イエス様と共に歩き食事をしたことを知らされています。しかし、弟子たちは、それだけの判断材料があっても、イエス様の復活を信じませんでした。彼らは、ガリラヤからエルサレムに上ってくる旅路で、そしてエレサレムに入ってからも、イエス様の受難と復活の予告を聞いていました。しかし、その復活の知らせが現実となっても、信じなかったのです。そんな弟子たちの只中にイエス様が現れました。家の戸には鍵がかかっているので、入れるはずがないのにです。そして、イエス様は弟子たちに「こんにちha

」と挨拶をします。弟子たちは、亡霊だと思いました。


『24:38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。24:39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」』


イエス様は、自分が亡霊ではない事を、このように説明しました。しかし、それでも弟子たちはイエス様が生きていることを喜びながら、同時に不思議がります。たしかに、亡くなったはずなのに、復活するなどとは誰もイエス様の予告を真に受けていなかったからです。しかも、現実に生きているイエス様を見てもまだ、信じられないのです。そこで、イエス様は魚を食べて見せます。食べるということは、生きている証拠だからです。ここまでしたら、弟子のだれもがイエス様が復活してここに生きていることを受け入れたのでしょう。イエス様は、この奇跡の出来事について説明を始めました。

『24:44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」』

旧約聖書は、モーセ五書と預言者と詩篇からなります。歴史書は、預言者とひとくくりに、そしてその他は詩篇とひとくくりとなります。ですから、イエス様の言ったのは「旧約聖書に書いていることは、全て成就する」との教えでした。しかも、そのことを教えたのは初めてではありません。そして、続けます。

『「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。24:49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」』


 旧約聖書の預言の中に、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。」と直接書かれた記事は無いようです。一方で、イエス様の権威によって説教し、すべての民に宣べ伝えられることは、幾度も聖書に出てきます(詩篇2:8、イザヤ49:6、ダニエル7:14、ホセア2:23、ヨエル2:32)


イザヤ『49:6 こう言われる。わたしはあなたを僕として/ヤコブの諸部族を立ち上がらせ/イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして/わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。』


2.天に上げられる

 ベタニアは、エルサレムのすぐ近くにある村です。夕方にベタニヤに行って、帰って来るのには何の支障もありません。そのベタニヤで弟子たちを祝福しました。両手を挙げて祝福をする姿勢のまま、イエス様は天に上げられます。祝福のギリシャ語は、ユー ロゲオー(εὐλογέω)で、その意味は言葉が多いことです。よく話すこと、ほめる事を指すようです。 ヘブライ語では、「救済に満ちた力を付与する」というもともとの意味を持ちます。

 さて、弟子たちですがエルサレムの拠点の家に11人が閉じこもって、ユダヤ人に見つかることを恐れていました。それが、しっかりと外出をしてベタニヤ村に行っています。そこでイエス様の祝福を受けると、イエス様を伏し拝んで(ギリシャ語は、畏れて)喜んでエルサレムに帰っていきます。そして、イエス様を十字架につけた祭司長たちがいる神殿に向かいます。そして、神殿の中で神様を賛美しました。ユダヤ人につかまって、十字架に架けられることを恐れていた弟子たちですが、イエス様の復活を見て、そしてイエス様を信じたのです。