ルカ18:9-17

 見下している人

 

・ファリサイ派:ユダヤ教の主流派(他にサドカイ派、エッセネ派、熱心党)


フラウィウス・ヨセフスは著作の「ユダヤ戦記」の中で、ユダヤ教の四学派の一つとしてファリサイ派を挙げています。ユダヤ戦争の終結までは、ファリサイ派も含めユダヤ教を特定のグループが支配することはなかったのですが、あえて言えば主流派はファリサイ派でした。ファリサイ派は常にサドカイ派と対立していました。対立の理由はいくつかあります。

①階級対立があった。つまり、富裕層の支持が多いサドカイ派と、貧困者に支持者の多いファリサイ派、という構図があった。

②ヘレニズム文化に対して柔軟なサドカイ派と、否定的なファリサイ派の間には、文化的な対立があった。

③祭司が多かったサドカイ派は神殿によってその権威を笠に着ていたが、ファリサイ派は民衆の中に入ってモーゼの律法の精神を生きるよう説いていた、という違いがあった。

④聖書やそこから派生した多くの律法の解釈の違いが種々あることも対立の要因となっていた。

 神殿の崩壊後、神殿に拠っていたサドカイ派は消滅したため、ファリサイ派がユダヤ教の主流派となっていきました。こうして会堂に集まって聖書を読み、祈りを捧げるというファリサイ派のスタイルが、ユダヤ教そのもののスタイルとなっていきます。


1.見下している人

 

 『18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して~』

これは、ファリサイ派の人々を指しています。ファリサイ派は、ユダヤ教の主流であるし、お高く留まっているのはサドカイ派の人でありますから、普通に考えるとサドカイ派の人に向かっているように感じます。しかし、イエス様は、主にファリサイ派の人々の批判をしています。 なぜなら、ファリサイ派の人々が教えるのは、神様が下さった律法ではなく、自画自賛し、人を見下すための掟でしかなかったからです。

 イエス様はたとえでお話をしました。ファリサイ派の人の祈りについてです。

『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』

 この祈りには、都合の良い基準があるようです。悪を行わない、徴税人のように利益を獲らない事への感謝。それから、決められたことは守るとの約束です。このボーダーラインを守れば、正しい人間で、守れなければ罪人だと言っているように感じます。しかし、善を行わない、正当な利益を認めないのは、悪であります。また、決められたことだけを守ることは、真の意味では善ではありません。ここには2つの問題があります。一つは、「正しいことをしている」と自己満足していることです。実際は、ゆるゆるの基準を勝手に適用して、自分を正しい側に置いただけなのです。だから、正しいことをしようとの努力をすることがありません。そして、もう一つは、「私は罪を犯したのではないか?」との自問がないので、「私の悪事を、赦してください」と、神様に赦しを乞うこともないのです。一方で、罪人の代表とされる徴税人、ファリサイ派の人々が見下す徴税人は、全く異なる祈りをしました。

『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』

 徴税人は、自分の罪を知っています。そして、その罪から逃れようとしても、逃れ得ないのです。だから、神様に「憐れんでください」と祈ることしか、出来なかったのです。しかも、ファリサイ派の人のように目立つところで、大きな声で祈ったのではなく、遠くから目立たないように祈ったのでした。

 ファリサイ派の人の祈りは、「自慢」でありました。しかも、自慢できるほどのことは全くしていません。まるで、犯罪を犯していないから正しいとか、金儲けをしていないから正しい、そして、決まっていることをやりさえすれば、充分との考えでしょう。この考えは、徴税人を見下しているだけではなく、「正しい」との判定基準をいじるは、神様まで見下していることになります。一方、徴税人は悪をしたことを「反省し」、「告白し」、「赦しを乞うた」わけです。誰もが罪を犯すのです。彼を赦すしかありません。いいえ、イエス様はむしろそのように自分のしたことを謙虚に受け止め、神様にすがる人こそが「義しい」と言いました。ファリサイ派の人は、自分が正しいと思っている罪人です。そして、徴税人は、自分が正しくないと思っている罪人です。同じ罪人ですが、神様に赦しを乞わないで、他の罪人をさげすんだファリサイ派の人は「義」とはされず、神様に赦しを乞うた徴税人は、「義」とされるのです。

2.子供を祝福する

 弟子たちは、なぜ乳飲み子を連れてきた人々を叱ったのでしょうか?たぶん、言葉がわからないならば、教えは伝わらないし、そんななかで信仰が芽生えるわけがないと思ったのでしょうか?それとも、単に会場の警備上都合が悪かったのでしょうか?

 イエス様は、妨げずに来させるように、弟子たちに告げます。

『子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」』


言葉だけで信仰が得られるのではなく、そのイエス様との触れ合いでも信仰は得られるのです。頭の理解よりも、霊的な体験の方が大きな影響があるのかもしれません。