Ⅱコリント8:1-15 

 恵みの分かち合い

2023年 825日 主日礼拝

恵みの分かち合い

聖書 コリントの信徒への手紙二 8:1-15


恵みの分かち合い

 今日から日本バプテスト連盟の神学校週間です。どうか、憶えてお祈りと御支えをお願いします。当教会では、7月9日に井馬佐紀子神学生の宣教をお願いしていますし、柏雅之兄は今日大宮教会で、宣教を担当しています。そもそも、この神学校週間は何のためにあるかをあまり聞いていないと思いますので、ご紹介したいと思います。日本バプテスト連盟の神学校は、西南学院大学の神学部です。(九バプ、東バプは連合立と自称)その神学部を祈りで支える、そして奨学金制度で支援するのが目的で、毎年この時期に神学校週間を開催しているわけです。特に、祈っていかなければならないことは、献身者が与えられることです。全国には、約300の教会・伝道所がありますが、その1/10、約30教会には教役者がいません。300教会ですから、一人の牧師が平均30年間働くと仮定すると、年間10人の新任牧師が必要であります。しかし、今年3月に神学校での学びを修了した人数は、西南学院が1名、東京バプテスト神学校が1名、九州バプテスト神学校が5名でした。7名です。実際に赴任したのはそのうち4名でした。明らかに、教役者の供給が不足しています。一方で、奨学金の財源が余っています。このため、もう少し神学生の生活支援を増やすとか、返済不要にするとかのアイデアはあります。しかし、奨学金を増やしたとしても、献身者が増えるわけではありません。献身者が減っている他の原因があるからです。多くの教会が高齢化で財政が下がってきていることが、その背景にあります。そのため、仕事をしながら牧師をしている人が結構いるんですね。それが、献身者が増えない原因の一つです。そういう状況にあって、社会人が神学校で学び、そして教役者になっていく、今やその道筋が主流となってしまいました。若い人の献身に任せるのではなく、青年から高年齢層までの全ての信徒に献身が問われています。そして、どの教会も献身者を送り出す側となっていくよう、祈りが必要です。平等に献身者を出すことが理想であります。それから、牧師の高齢化も進んでいますが、後継者が決まらないと、なかなか引退できないのも問題です。それでも年を重ねると、牧師はいずれ引退しますから、これから教役者がいない教会が増えていきます。今年の神学校修了者数をみると、年に10人必要なところに4人しか赴任していません。計算上は年6教会の教役者がいなくなるわけです。これは、何とかしなければなりません。そして、自分の教会には関係が無いと言うことではありませんので、是非牧師の育成のために祈ってください。それから、献身者が与えられるように祈っていきましょう。


 今日は、神学校献金のアピールも兼ねて、献金のお話です。パウロは第三次伝道旅行で、エフェソに滞在しているときコリントに手紙を書きました。この手紙の宛先であるコリントを、第二回伝道旅行の時訪れており、約1年半伝道していたのです。その関係で、パウロはコリントの信徒と手紙をやり取りしていましたし、テトスを派遣するなどして、パウロの指導は続いていました。そして、コリントに派遣したテトスがエルサレムの教会のために献金を集め始めていたことから、パウロはその献金について語ります。

 そもそも、パウロはテント張の仕事をしながら伝道していましたが、コリント伝道の途中から、伝道に専念していました。パウロは、どうやって生活をしていたかと言うと、コリントの教会から手当てが出たのではありません。マケドニアにあるフィリピの教会がパウロを支えていたのです。

フィリピ『4:15 フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。』

パウロはお金をもう一度集めました。それには、理由があります。

ローマ『15:25 しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。15:26 マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。

15:27 彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。』

 フィリピはマケドニア州にありますし、コリントはアカイア州にあります。パウロは、そのほかにガラティヤ州にも(Ⅰコリント書16章1~4節)呼び掛けていますから、足元のエフェソでも献金を集めていた。つまり、パウロの伝道した地域全体に呼びかけたと思われます。何のための献金かと言いますと、エルサレム教会の貧しい信徒たちを援助するためでした。エルサレム教会は全キリスト者の母教会であります。その母教会を援助するための献金です。使徒言行録を見ると、エルサレムの教会は、集団生活をしており、必要なものは分け合っていました。それでも、貧しい人たちに施しをしていましたから、その費用は信徒の献げ物でまかなうわけです。そういうわけで、エルサレムの信徒たちは、必然的に貧しかったのです。パウロはそうしたエルサレムの教会を支えるために、献金を集めていました。パウロは、以前アンテオキヤにいたころ、バルナバに連れられて、エルサレムの教会に献金を持参したことがあります。(使徒11:28)この時は、大飢饉があったためです。ですから、エルサレムの教会を支える必要性を、パウロは感じていたと言えます。エルサレムの教会から、信仰を与ったのだから、喜んでエルサレムの教会を支える義務がある とまでパウロがかかわった教会に訴えたのでした。・・・さて、私たち経堂バプテスト教会は、日本バプテスト連盟に所属する一教会として支えています。また、連盟の神学校も支えています。私たちの教会は規模が小さく、微力といえども、全部の教会があわさると、それだけのことが出来ます。そこで献金の事です。今まで、支えてきたからとか、お願いされているからと言った消極的な支援ではなく、「連盟や連盟の神学校を支えるのは、神様から与えられている責任だ」との私たちの意識を持ちたいという事です。連盟を支えるのも神学校を支えるのも、教会を維持するために必要です。連盟は、私たちが何者であるのか、私たちの教えはどうあるのか等の一教会ではとても支えられない働きをしています。神学校は、教役者を輩出します。これらを支える義務があるのは明確であります。私たちは神様に帰属しているように、連盟全体の働きにも私たちは帰属しているのです。


 さて、マケドニア州の教会ですが、ユダヤ人による迫害がありました。そういう試練の中で、『その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった』とパウロは、報告しています。ちょとわからない訳なので、直訳してみますと、「彼らの豊かな喜びと深い貧困は、純粋な豊かさとして 溢れました。」 ひどく貧乏であるにも関わらず、マケドニアの人々は、エルサレムの教会の助けとなることに喜びをもって、気前よく献金をしたとのことです。やはり、自分の生活が苦しくても、エルサレムの教会に帰属しているマケドニアの教会にとって、エルサレムの教会を助ける事は、喜びであったろうし、また神様への責任だと認識していたのだと思われます。

 『彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで』とありますが、力に応じては、神様への責任から。「また力以上に自ら進んで」は、喜びに満ちていた証拠であります。エルサレムの教会のことは、自分の教会のことと同じように大事であり、そして、エルサレムの教会に自分たちは帰属しているとの意識の表れだと思われます。

『 また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げた』

マケドニアの教会の人々は、イエス様の御心によって、本当の教会、人と人がつながり合う教会になったことをパウロは証します。パウロは、コリントの教会も分裂しないで、マケドニアの教会のようになっていくことを願いました。

『8:7 あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。』

パウロは、このように命令しましたが、すぐに命令ではないと撤回します。マケドニアの教会は、進んで献げたのです。だから、エルサレムの教会への愛は純粋だったことが証明されています。コリントの教会も同じように、できる。それも期待以上に。これが命令であれば、喜んで献げられるのか?・・・少なくとも期待以上にとはならないと思われます。

 パウロは、献げ物について、その思いを伝えます。エルサレムの教会は、マケドニアの教会を信仰で豊かにする機会を作ったのですから、マケドニアの教会は貧しいエルサレムの教会を助けたい。その助けを進める中で、マケドニアの教会の信仰は、より豊かになったとパウロは確信しているわけです。コリントの教会も同じようになる。そのことをパウロは望んでいたのです。コリントの教会は、献げ物を集めると確かに経済的には厳しくなるでしょう。しかし、それ以上に「献げる恵み」に与ります。なぜなら、神様は私たちを養ってくださるからです。神様は、私たちに他の人たちを助けることができる程度に、必要を満たしてくださいます。私たちは、献げた後の生活も守ってくれる神様を信じていますから、貧しい中でも私たちは教会を支えますし、連盟や神学校の働きを助けます。これは、自分の意志から献げるものです。そして無理はしてはいけません。

パウロはこう言いました。

『8:12 進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。8:13 他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。』

 「持っているものに応じて」そして、あなただけが苦労してはいけません。パウロは、誰にでも平等となることを大方針としていたのでしょう。エジプト脱出の物語で、神様がマナを降らせた時の記事をパウロは引用します。

出『16:16 主が命じられたことは次のことである。『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。』」16:17 イスラエルの人々はそのとおりにした。ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。16:18 しかし、オメル升で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた。』

 神様から頂いた恵みを集めてから、升で量って平等に分けたのですが、中には多くを取って蓄えた人がいました。しかし、神様はその蓄えたマナを腐らせました。神様の恵みは、皆で分かち合うものだからです。私たちは、イエス様の恵みを十分に受けているのですから、教会の外部のことであっても足りないところがあれば、足りるようにしてあげたいですね。もちろん、自分も足りること。これは、イエス様の恵みの一部をお返しする条件でもあります。

 神学校週間ですので、神学校のために、祈りましょう。まずは、献身者が与えられるように。この教会からも、将来献身者が出る事をも祈っていきましょう。私たちの教会は規模が小さくても、「持っているものに応じて」平等に支えていきたいですね。そして、イエス様の恵みも平等に受けていますから、その中から献げてください。献身、奉仕、献金など献げ物による支えは、教会生活の中で必要なことです。どうか、ご自身の意志で、「持っているものに応じて」献げてください。そこには祝福があります。持っているものに応じて献げ、イエス様の恵みに等しく与ることを信じてまいりましょう。