ローマ15:14-21

 キリストが私を通して

2024年 1 7日 主日礼拝  

キリストが私を通して』  

聖書 ローマの信徒への手紙15:14-21 


 今日は、新年最初の礼拝を守っています。昨年一年はそれぞれにとってどんな年だったでしょうか?そして、今年はどんな年になるのでしょうか?神様に、お祈りしながら、その導きと恵みに与っていきたいと思います。

 さて、今日は使徒パウロによって書かれた「ローマの信徒への手紙」から読み取りたいと思います。今日の個所は、この手紙の終わり近くです。パウロは、手紙を書き終えようとして、書いてきたことを振り返りました。そして、「ところどころかなり思い切って」書いたと告白しています。その思い切った理由は、ローマへの強い思いや、伝道の使命感からでしょう。パウロはこの手紙を、コリントで紀元56年頃に書きました。その目的は、次に訪問をしたいと願っているローマの教会にパウロの強い思いを送ることです。 

 思い切って書いた箇所とは、たとえば、第1章です。ここに、人間の罪をたくさん挙げています。それらの罪を犯す人間に対して、神様は怒りを持って最後の審判で裁いて、滅ぼすと書きました。このパウロの言葉によると、旧約聖書を伝承しているユダヤ人も罪人であり、神様を知らない異邦人の罪も、弁解の余地がないとしています。

 また、ユダヤ人の律法では、罪人が救われることはないと、書きました。パウロは、恐れることなく強い言葉を使って書いていますが、かえってローマの信徒には、通じないかもしれません。なぜかと言うと、「ローマの信徒は、キリスト教を良く知らないので、基本の基本を教えているつもりなんだろう」などと、受け止められそうだからです。もし、そんな誤解があれば、パウロの思いが、ローマの信徒に通じずに、この手紙も無意味になってしまいます。


 そこで、パウロは誤解が生まれないように、手紙の途中で振り返って、「ところどころかなり思い切って」書いたことを、告白したわけです。決してローマの信徒が知らないと思って、教えを書いたわけではありません。パウロは、 『 記憶を新たに』と願ったのであり、ローマの信徒たちが『善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができる』ことに信頼しての事だと、断るわけです。パウロはローマの教会での教えや、信仰生活、また信徒の社会生活等に問題があるとは考えていません。ローマの教会が成熟した教会であることを知っていながら、あえて 『 記憶を新たに』との意図なのでした。また、パウロはこのように一言加えることで、ローマの人々に善意で受け止めてもらえると信じたと思われます。とは言いながら、パウロは、ローマの教会では、ユダヤ人と異邦人とが、うまくいっていない事を予想していました。そこらへんをしっかりと書いています。


  パウロが、「思い切って」書いた理由の一つは、異邦人の使徒としての役目を担っていた事です。そのため、ローマの異邦人への、特別な思いがありました。当時のローマは、地中海全体を支配しているローマ帝国の首都ですから、かなり多くの異邦人がいたと思われます。異邦人のために立てられた使徒と自認するパウロですから、ローマでの伝道や、信仰生活の指導をすることを、自分の役割だと思っていたはずです。パウロは、特に異邦人のために、使徒として立てられていることをこのように伝えています。

 

『 異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。』

 パウロは、自らを「キリストに仕える者」であると言いました。しかも、ユダヤ人のためにではなく、異邦人のための使徒であると明言するわけです。また、原語から読むと、「祭司の役」とは、神聖な いけにえを捧げる役のことを指しています。その神聖な いけにえとは、なんと「異邦人」の事をさしています。信仰を持った異邦人が清められ、福音の働きへとパウロの手によって捧げられるわけです。「神様を知らない異邦人に罪を自覚させ、そしてイエス様を信じるように、そして献身するように導く」この役割のためにキリストに仕えている、パウロであります。 

 当時、異邦人の救いのために、命をかけて働くなどということは、あまり高く評価されませんでした。しかし、パウロにとっては異邦人のために働くことが誇りなのです。そしてパウロの仕えているイエス様御自身が、パウロを通して働いてくださることが喜びだったのでしょう。パウロは、実際このように書いています。

 

『15:18 キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、15:19 また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。』


 ここで、「しるしや奇跡の力」とありますが、この「しるし」と「奇跡」は、複数形になっていますので、神様の霊の力によって数々の奇跡があったことを証しているのです。パウロはこの手紙を書くまでに、地中海の東部分を回っていましたが、一番西に行ったのがイリリコン州だと思われます。イリリコン州は、ギリシャの西側の州で対岸がイタリアです。聖書では、この箇所にしかイリリコン州が出てきませんので、立ち寄った程度だと思われますが、パウロはローマの近くまで来ていることを伝えたかったのでしょう。いずれ地中海の西側にもあまねく伝道をしたいとの意志が感じられます。またそれは、イエス様の命令であります。イエス様が共におられることを、パウロは信じての事であったと言えるでしょう。


 パウロは、地中海のほぼ東半分の地域で伝道をしました。この事実は大きかったと思われます。ローマの信徒たちも、使徒パウロの異邦人伝道への強い思いや、その行動力が伝わってきて、共に働く時を楽しみにしたことでしょう。

 もちろん、パウロが、異邦人伝道に強い思いを抱いていたのは、キリストに仕えていたからです。イエス様の福音を宣べ伝えたパウロです。しかし、見方を変えると主体はイエス様なのです。パウロを通して、福音を伝え、異邦人を次々と救ったのは、主イエス・キリスト御自身であります。

 さて現代の福音伝道で、聖霊の力による目に見える奇跡が伴うでしょうか? あまり目の当たりにした覚えはないですね。でも、聖霊の力は、福音を聞いた人に、十字架のイエス様を救い主と信じる信仰を下さっていることは事実です。その事実こそが「奇跡」なのであります。そして、私たちは 罪が赦され、イエス様の恵みの中に導かれます。イエス様は、福音を通し、聖霊を力強く働かせ、救いを、今も起こし続けているのです。私たち自身も、こうして救われているのです。伝道で、大切なことは、聖霊の働きを信じて、福音を熱心に語り続けていきなさい・・・。それが、イエス様の命令なのであります。


 パウロの異邦人伝道は、キリストの名がまだ知られていない地域に伝えるという特色がありました。パウロは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネなどの12弟子たちが、エルサレムを中心とするイスラエルとその周囲の地域で伝道をしました。その地域は彼らに任せ、パウロはキリストの名が、まったく知られていない異邦人に、イエス様の福音を伝えることを強く望んだのです。だからパウロはこう書いています。 

 『15:20 このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。』


 イスラエルと周辺の国では、すでに、ペトロ、ヤコブ、ヨハネなどの12弟子たちが、伝道し、救い主イエス・キリストの御名が宣べ伝えられていました。そこには、教会の土台、基礎はすでに築かれています。そこで、パウロは、救い主イエス様の名が、まだ宣べ伝えられていない、教会の土台、基礎がまだない異邦人の地への伝道を熱望したのです。ですから、パウロの次の伝道の地は、ローマではありません。「イスパニアへ行くときに経由地(ローマ15:24,28)としてローマに寄って、ローマの信徒を励まして行こう」と言うのが、パウロの本心であります。また、教会の土台の無いところに行こうとするのは、「世界中への伝道が、聖書に示された神様の御心である」ことをパウロが確信していたからなのです。

『15:21 「彼のことを告げられていなかった人々が見、/聞かなかった人々が悟るであろう」』

これは、イザヤ書からの引用です。

イザヤ『52:15 それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見/一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。』

 この箇所は、第四の「主の僕」と呼ばれる歌の前半部分にあります。一言で言うと、救い主の受難の預言であります。

 「救い主、メシアが現れて、全ての人の罪の身代りに、見る影もなくなるほど神様から打たれて苦しみ死ぬことにより、救いの道が開かれる」との預言です。そのイエス様を知らなかった人々は、イエス様が来たのは自分たちの救いのためであったということを理解します。こうして、メシアによる救いの道を開いてくださった神様を、イザヤは賛美したのです。この預言が、自分の関わる異邦人伝道で実現することを、パウロは、固く確信していたのです。 


 現代の日本に、ローマの信徒の手紙が届けられたことを想定してみてください。私たちは、すでにイエス様への信仰を告白してバプテスマを受けています。そして、聖書の学びもしています。そこに、パウロは、念を押すようにキリスト教のイロハを手紙に書いてきているわけです。私たちは、そういうパウロの熱さに感動するのでしょうか?それとも、戸惑うでしょうか?。もしくは、僭越だなぁと感じるのでしょうか? 私たちが戸惑うとしたら、その原因はパウロの熱さにあると思います。私たちは、クリスチャンとしてやるべきことはそれなりにやっています。しかし、イエス様の命令に対して、パウロのように熱く取り組んでいるでしょうか? パウロが熱く語れるのは、彼特有の賜物であることは確かでしょう。しかし、やはりそれだけでは無いと思います。イエス様の導きを信じ、そして祈ってその伝道の働きに取り組んだパウロ。そしてそこに、奇跡やしるしが起こっていたと言えます。私たちも、今年一年パウロほど熱くはなくとも、少し熱さを加えて祈って伝道し、そして「しるし」を起こしてまいりましょう。