詩編26:1-6

すべてはのもの 

この詩篇は、多くの人が、「ダビデがエルサレムに神の箱を持ってきたときの詩歌」であるとしています。詩編105編1-15のように、歴代誌上16:8-22の記事とぴったり合っているわけではないので、歌っている内容からの推測だと思われます。イスラエルがペリシテ人と戦ったときのことです。シロの町から神の箱を運んできました。この箱そのものに神の力があると信じたからです。(サムエル上4:3)しかし、ペリシテ人に負けてしまい、あろうことか神の箱も奪い取られました。しかし神の箱を置いた町に災いが起きたので、ペリシテ人は車に箱を乗せて、それをひっぱる牛が自分の行きたいところに、行かせるままにしました。そうしたら、イスラエルの町ベテ・シェメシュにまっすぐ歩いていきました。ベテ・シェメシュの人々は喜びましたが、何と契約の箱のふたを開けたために、70人の人が死んでしまったのです。(サムエルエ上6:19)

ダビデが王となったときに、彼は首都としたエルサレムの町に神の箱を持っていきたいと願いました。彼は神を喜び、賛美したい気持ちはいっぱいです。ところが、神の箱は、聖別されたレビ人によって肩にかついで運ばなければいけないことを知らずに、牛に車を引かせて運んだのです。(サムエル下6:3)そうしたらひっくり返そうになった箱を押さえようとしたウザが死んでしまいました。ダビデはそこでようやく、自分がしたことに気づきました。かつぐ者たちが六歩歩いたときに、牛をいけにえとしてささげました。聖別が必要であることに気づいたのです。

1.創造主

 神様が地上のすべてのものを支配しています。すべてが神様のものです。そして、神様はどこに住まわれているのでしょうか? 神の箱は、モーセを通して契約された、十戒を刻んだ石が入っています。神様がそこにいるわけではありません。しかし、かつてイスラエルは神様の力を利用しようとしてペリシテとの戦いに神の箱を持ち出してしまいました。そのような間違いを犯してはなりません。神様は、神の箱や神殿や教会に居座っておられる方ではないのです。

 イスラエルがかつてペリシテ人と戦ったときに陥った過ちは繰り返してはいけません。主への礼拝のため、私たちが教会として集まることは非常に大切です。キリスト教は孤独な、個人の宗教ではありません。共同体を持っています。しかし、教会堂の中でしか主の御霊は働かれないと考えたら、それは異教の考えです。主はこの地球に収めることができるような方ではなく、ましてや教会堂の中に収めることなどできないのです。

2主の山 

エルサレムの神殿(主の山にある天幕)に入ることができる者、そして契約の箱が安置される至聖所に立つことができるのは、神の律法に従って聖別された者だけです。神の箱を運ぶときも聖別された者だけです。ダビデは、一度牛に車を引かせて神の箱を運ぶという失敗をしました。そして、エルサレムの街に神の箱を運び込むことに躊躇していたのです。しかし、神の箱を急遽運び込んで預かった家は、大いに祝福されました。それを知った、ダビデは再びエルサレムに神の箱を運ぶことにしました。

ダビデは「手がきよく」と言っています。また、「心がきよらかな者」とあります。みてくれがきよくても、心が汚れているのではなく、神様に真心で向き合う人が神殿に入るのにふさわしく、そして祝福されるのです。また、大きな恵みに与るでしょう。

3.主を求める人

7節に入る前(城門に入る前)に、セラ と声を掛け、聖歌隊および行列に参加するもの全てが静まり、祈りを捧げます。

パウロは、「義を受ける者は神の義を求める者」と教えました。この詩編でも、主を求めることこそ、祝福と恵みに与ることだと歌っています。

6節「これは、主を求める世代/主の顔を求める者、ヤコブよ(直訳)」

詩歌とはいえ、これでは意味が分からないので、訳には補足が必要です。

意味が通る訳を探してみました。‎‎「Such people may seek you and worship in your presence, O God of Jacob. 」(New Living Translation)

私訳:そのような人々はあなたを求め、あなたの前で礼拝するでしょう、 おおヤコブの神よ。

ヤコブとは、真にイスラエルの民の始祖です。近隣の民族とイスラエル民族の違いは、ヤコブから始まったのです。ヤコブの神とは、天地創造の時からおられた、アブラハムの神であり、その子イサクの神でもあります。これは、現代でも変わりません。また、神の箱をエルサレムに迎えるとき、神様が「カナンの地を嗣業として与える」との神様の約束が成就していました。この約束は、アブラハムと初めて結ばれ、ヤコブの時イスラエルの民への約束となりました。この約束は代々引き継がれたのです。そして、この恵みに与ったのは、神様を求める人々なのです。