ヨハネ15:1-17

真のぶどうの木


 この教えは、イエス様が十字架を前にして取った最後の晩餐で弟子達に語ったものです。イエス様の最後の教え、いわば遺言とも言える教えであります。

1.ぶどうの木

 ぶどうはユダヤ地方では良く見かける木で、主にぶどう酒のために栽培されています。ぶどう酒は、保存が効く貴重な飲み物であり、味わいとその酔いは人々に喜びを与えます。そういう意味で、ぶどうは神の命・恵み・祝福の象徴と言えます。イエス様は自らの事を、神様が植えた「真のぶどうの木である」と言いました。また、「あなたがたはその枝である」と言っています。つまり、私達はイエス様という豊かな木につながる枝であり、イエス様の中に流れる豊かな水・養分をいただいて葉が繁り、花が咲き、実をつけると教えているのです。

 イエス様と私達の関係は「木と枝」の関係です。私達はイエス様としっかりつながっているだけではなく、教会につながっていることで、イエス様の一部となっています。「羊飼いと羊」以上に、密接で相互に依存した関係にあるのです。それほどイエス様の愛は強くて深い。これが第一のメッセージです。

2.わたしにつながっていなさい

 イエス様と私たちは、木と枝のように一つに結ばれていることを踏まえた上で、イエス様はさらに「わたしにつながっていなさい」と命令します。これが第二のメッセージです。 私達はイエス様から神の命・愛・恵み・祝福を受け、豊かな実を結ぶのです。その反対で、実のならないぶどうの木が暗に示されています。それで「真のぶどうの木」とわざわざ言っているわけです。だから、他の木につながってはいけないのです。旧来の教えにしがみついているファリサイ派の人々や律法学者にはついてはいけない。そんな思いは、ヨハネの書いたものには良く見られます。

 ですから、イエス様と私たちとの関係は木と枝という深いつながりの中にあるけれど、積極的・主体的に「イエス様につながっていなさい」と命令しているととらえるべきです。私たちが豊かな実をつけるには、常にイエス様につながって、栄養を頂くことが求められているのです。辛い時、悲しい時、苦しい時、試練の中にある時、絶望の淵にある時、誘惑の中にある時、いかなる時もイエス様から離れず、つながっていることを求められているのです。

では「イエス様につながる」とはどういうことでしょうか。

『15:9「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛してきた。私の愛に留まりなさい」』

『15:12「私があなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」』

 このように、イエス様が教えます。つまり、イエス様につながるとは、イエス様の愛に留まり、その愛に応答して、互いに愛し合うことです。言葉では、簡単ですがなかなかできない事です。なぜならば、私達は罪人であり、愛のない者だからです。しかし、イエス様は自分の方から「あなたがたにつながっている」と言っています。イエス様がつながっているからこそ、私たちが持っていない「愛」を送ってくれるのです。そして、イエス様が私たちにつながっているからこそ、私たちもイエス様につながることができます。この主の命令は喜ばしい命令です。

 イエス様につながって生きること、イエス様の愛に留まり、イエス様のように人々を愛すること、人々の愛に留まる事は、大きな喜びです。これが、イエス様の教える第二のメッセージです。

3.私たちは兄弟・姉妹

 最後のメッセージは、私たちクリスチャンは、イエス様の木につながっている枝(原文は蔓)同志であることです。イエス様を仲立ちとした兄弟姉妹であるということです。ここに教会に集う者の交わりの基本・動機があります。人間的な感情、例えば好き嫌いや、考え・意見が合うかどうかは、教会の交わりの基本ではありません。イエス様という木につながる枝同志であることが、教会での信徒同士の交わりの基本なのです。

 加えて、イエス様は枝である信徒同志が愛し合うことを命じています。この愛は、アガペー(ἀγάπῃ)ですから、人間のもてる愛ではなく、神様の愛(一方的な愛)であります。ですから、互いに愛し合うとは、相手に仕え、相手の愛を受け入れることであります。このように、イエス様のぶどうの木につながる枝同志である信徒たちが、互いに愛し合うことが教会の基本なのです。さらに、イエス様を仲立ちとした交わりは、教会の外の人々まで広がることが出来ます。かの神学者カール・バルトは「我々はヒトラーのためにもイエスが死なれたことを忘れてはならない」と言いました。世のすべての人がイエス様の救いの対象・神の愛の対象なのです。これを人々に伝えることが伝道の本質です。