ローマ11:25-36

すべては神に

  ※イザヤ『59:20 主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると/主は言われる。59:21 これは、わたしが彼らと結ぶ契約であると/主は言われる。』



1.イスラエルの救い

『一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、11:26 こうして全イスラエルが救われるということです。』 

多くのユダヤ人は当時、イエス・キリストを退け、福音を拒否していました。神様は彼らをかたくなにしたからです。しかし、それはイスラエルを捨ててしまったのではありません。神様はそのことによって異邦人に救いをもたらしました。そして、神様はさらなる計画を持っていました。それはイスラエルの不従順を通してイスラエルに憐れみを与えることです。その結果、イスラエルの中から悔い改め、神様を信じる者が起こされるようになる。こうしてイスラエルに祝福が戻って来るのです。神様がこうしてイスラエルを顧み続け、彼らを救うことは旧約聖書が預言していたことでした。26-27 節ではイザヤ書 59 章20節の契約の言葉が引用されています。契約の要点は、次の通りです。

 「やがて救い主が現れて、ヤコブすなわちイスラエルの不従順を取り払い、その罪を取り除いてくださる。」この契約に従って、イエス様が来ました。しかし、ここで言われていることはまだ十分にイスラエルに成就していないようです。しかし神様は必ずこれを実現するのです。イスラエルがみな救われるという祝福を下さるのです。

『11:28 福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。』

 多くのユダヤ人はこの時、神に敵対していました。しかし彼らは、アブラハム、イサク、ヤコブといった父祖たちのゆえに、すなわち族長たちと結んだ契約のゆえに愛されているのです。


『11:29 神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。』

神様は約束を撤回したり、破棄する方ではありません。ご自身が計画し、約束されたことを必ず最後まで果たすお方です。 

 さて、イスラエルが皆救われるのは何時のことなのでしょうか?。26節の最初の言葉は「こうして」であることから、このような方法でイスラエルが救われることがわかります。つまり、異邦人が救われる時代から、イスラエルが救われる時代に移行するのではなくて、じわじわと同時進行していくと読めます。

 また、「今は」という言葉が繰り返し出て来ることから、その同時進行はパウロの時代に始まっていたと言うことになります。

 『11:32 神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。』

 パウロはここでイスラエルだけではなく、すべての人に望みがあることを示しています。 神様は人々をまず不従順に閉じ込めました。もちろんその人々の悪に対する裁きとしてです。しかし、それで終わりではありませんでした。神様はその先に、彼らを憐れもうとする目的を持っていたのです。イスラエルも同じです。神様は彼らに対する裁きとして彼らをかたくなに不従順に閉じ込めました。しかし神様は憐れもうとしました。この神様の御心が分かるでしょうか?。不従順な人々には、もう望みがないわけではありません。私たちもかつては不従順の中にいました。神様に従っていない、そして従おうとしていない私たちでした。しかしそれは、神様によって不従順に閉じ込められていたのであって、時が来て今、私たちは救いに与っているわけです。そのように神様はイスラエルも導いておられます。

2.全ては神に

 パウロは 『11:33 ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。』と言いました。文字通り、パウロはこの神様の計画に圧倒されて、感嘆するしかなかったわけです。

『「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。11:35 だれがまず主に与えて、/その報いを受けるであろうか。」』

 これは、相談役は誰か?と聞いているのではありません。だれも主の計画を知らなかったし、主が誰かに相談していない事を強調したものです。人にはそのような知恵はありません。もし、誰かが知恵を主に与えて、その報いを得たならば、それは神様しかいません。(新約の主は、イエス・キリスト)

 これらのことは私たち人間から出たものではありません。

『11:36 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです』

神様の救いの業は、ただ神様から始まり、神様によって導かれ、最終的に神様の栄光へとつながって行くのです。ほめたたえられるべきお方は神様ただお一人。すべての栄光はただ神様にのみ帰します。私たちはただ神様の偉大さ、きよさ、寛大さ、あわれみの大きさに打たれ、圧倒されるばかりなのです。 

  人が不信仰であっても、神様は、それでも最後には導こうとしています。私たちにできることは、神様の富と知恵と知識の前でへりくだり、あわれみ深い御業を喜んで受け取り、賛美することです。特に心に刻みたいのは、「神様が人々を不従順に閉じ込めているのは、彼らを憐れもうとする御心のため。」と言うことです。私たちも不従順のただ中から神様の憐れみへと導かれたのです。イスラエルも全く同じです。そのことを知ると、今、どんなに神様と反対の場所にいる人にも望みがあります。不従順な今ですが、これから神様がどんな憐れみの業してくださるか?神様は不従順の中に閉じ込めた者を憐れみへと導くのです。私たちはこの神様を見上げて、救いの道である福音を宣べ伝えたいと思います。また自らが救いの祝福の中で生きることによって、神様の憐れみが他の人々への導きへと向かうことを望みます。また、今不従順な人々の救いのために用いられたいと思います。すべてのことは神様から出て、神様によって成就しますように、全ては神様に至ります。歴史は必ず神様の栄光というゴールに到達するでしょう。クリスチャンであることは、賢いからこのようになったのではありません。神様の計画によって、神様とともに、神様の栄光のために歩む者となっただけなのです。