ローマ11:1-24

異邦人の救い

 

1.イスラエルの残りの者

 いくら神様が愛を現わしてもイスラエルはその不従順を改めようとはしませんでした。そこで、パウロが問います。「神は御自分の民を退けられたのであろうか」 と。

 そして、「決してそうではない。」と とても強い言い方で自身の問いに答えています。というのは、旧約聖書の中で、神様は「わたしはあなたを選び、決して見捨てない」(イザヤ41:9)とイスラエルに約束しているからです。


イスラエルは、さらに、神様が遣わしたキリストを見捨てたのです。このような民は、永遠に退けられるのべきなのでしょうか?「そんなことはない」と、パウロは断言しているわけです。パウロは「わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。」と言いました。つまり、神様の約束は、今でもこのイスラエルの民族には「有効」であることを前提にして、説明しはじめます。

 預言者エリヤが、バアルの預言者たちと対決したとき、神様は『「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」』と言いました。つまり、バアルに従わずに目立たないように神様を礼拝していた者がいて、神様はしっかり見ていて滅ぼすことをしませんでした。同じように、イエス様を見捨てたイスラエルですが、まだ多くの者はイエス様を信じています。イエス様を受け入れない者は、神様によってさらにかたくなにされ、聞く耳をもたないイスラエル人となったのです。

2.異邦人の救い

  ユダヤ人がイエス様に躓いたこととは、神様がご自分の民であるユダヤ人を退けたことを示しているのでしょうか? そうではなくて、神様の目的は、このことによって神様の救いが異邦人にも及ぶこと。その結果、ユダヤ人が「ねたみ」、自分でも救いを求めるようになることにあったのです。ユダヤ人が神様の救いに躓いて、拒んだ時、全世界が豊かに恵まれたとすれば、そして、後にユダヤ人もイエスに立ち返るならば、どんなに祝福されるのでしょう。

 皆さんが知っているとおり、神様は私(パウロ)を、異邦人への使徒に任命しました。私はこのことを非常に光栄に感じていますが、できるだけ多くの機会を見逃さず、同胞にその「ねたみ」を思い出させ、幾人かでも救いたいと思っています。同胞がイエス様を信じるようになったら、それこそすばらしい、死者の復活であります。

 信仰の父アブラハムや預言者は神の民なのだから、その子孫もまた、神様の民となるはずです。木の根が聖ければ、その枝も聖くなるはずだからです。ところが、信仰の父アブラハムという木のいくつかの枝、すなわちいくつかの同胞は折り取られてしまいました。そして、野生のオリーブの木の枝のようであった異邦人のあなたがたが、それにつぎ木されました。それで今、異邦人たちも、神様がオリーブの木に注がれる、特別豊かな栄養にあずかって、アブラハムとその子孫とに約束された祝福をいただいています。異邦人たちは、折り取られた枝の代わりにつぎ木されたことを自慢しないように、注意しなさい。あなたがたに重要なのは、ただ神の木の一部になっていることです。異邦人は、ただの枝であって根ではないのです。「私に場所を譲るため、前の枝が折り取られたのなら、私はかなり特別な人間に違いない」と考えるかもしれません。しかし気をつけなさい。ユダヤ人で枝が折り取られたのは、神を信じなかったからであり、あなたがつぎ木されたのは、神様を信じたからにほかなりません。むしろ、厳粛に、心を引き締めなさい。もし神様が、もとの木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないということです。また、神様がどんなに恵み深く、また、どんなにきびしい方かを考えて下さい。不従順な者には、非常にきびしい方ですが、神様を愛し、信じ続ける者には、とても恵み深いお方なのです。しかし、不従順なら、あなた方もまた折り取られてしまうでしょう。

 一方で、ユダヤ人が本当の意味で神様を信じるなら、またもとの木についでくれます。神様には、そうする力があります。あなたがたは、野生のオリーブの木の一部として、神様から遠く離れた存在でしたが、神様は喜んで受け入れ、ご自分の良い木についでくれたのです。これは異例のことです。とすれば、もともとその木の枝であったユダヤ人にはどうでしょう。いつでも、もとの木につぎ木しようと、準備をしておられるのではないでしょうか?