イザヤ書5:1-6

ぶどう畑の歌 

 

1.はじめに

 この歌はおそらくユダの人々が、秋の収穫を祝う祭りでエルサレムに集まって来たとき、イザヤが神殿の庭で歌ったものと思われます。おそらくイザヤのもとに集まった人々も皆、預言者から神様の愛の歌を期待したことでしょう。ところが、その歌の終わりに近づくと、人々の期待は全く裏切られました。彼らはたちまち失望しました。


2.愛する者のために

この「愛の歌」は、農夫と畑への愛を歌ったもので、神様(農夫)とユダ(畑)の関係を示しています。

『5:1 わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。』

わたし=預言者イザヤ わたしの愛する者=神様 

 ここで神様は、預言者の親しい友人との設定になっています。友人はぶどう畑(ユダ)を心から愛していました。わたしは、その友人のために、「そのぶどう畑の愛の歌を」歌おう、と言います。友人は、「肥沃な丘に、ぶどう畑を持っていました」。ユダの民が住むユダの丘をぶどう畑にたとえています。

『5:2よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」』

彼はそこの石を取り除き、耕して、良いぶどうの苗を植え、ぶどうを栽培しました。「良いぶどう」は、ユダが神様の民として、しかも特に神様に愛されていることを表しています。ぶどう畑の真ん中に、見張りのやぐらを立て、「酒ぶねを掘り」ました。酒ぶねは、足でぶどうを踏んで絞るために、岩を掘った浅い穴です。十分な準備をして、彼は甘い良いぶどうが実るのを待ちました。この友人はその愛するぶどう畑のためになしうるすべてのことをしたのに、結果は全く期待はずれで、実ったのは酸っぱいぶどうでした。これはイザヤの時代にユダの国民が神様の意志に沿わない事、つまり背信を示します。


3.酸っぱいぶどうの 責任

『5:3さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ。わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。』

イザヤが神様の言葉を人々に向けます。神様とユダの民、どちらにぶどう畑の失敗の責任があるのかを問います。ユダの民自らが、その罪を自覚するようにしたものです。

『5:4わたしがぶどう畑のためになすべきことで、何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。』

これ以上手を加える必要はないと思われるほど手をかけたのに、全くワインにならないような酸っぱいぶどうが出来てしまったのはどうしてなのか。神様に何か落ち度があったのか、足りないことがあったのか、あったら教えてほしいと、判断を求めます。


4.ぶどう畑への裁き

『5:5さあ、お前たちに告げよう。わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ、石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ5:6わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず、耕されることもなく、茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。』

 ユダの民の責任を問うた預言者イザヤは、返事を待ちますが、応答はありませんでした。するとイザヤはおもむろに沈黙を破って、彼らの背信に対する神様の断固たる決心、すなわち「見捨てる」ことを宣言したのです。見捨てるとは、今まで世話を焼いていたことをやめることを指します。つまり、囲いを作り、山火事で焼かれないようにしていました。そして石垣を作って畑が踏み荒らされないようにしていました。それを神様はやめると言うわけです。これは、ユダの国をもう守ることをしないと言う譬えにあたります。同じように、枝の剪定も、耕すこともしなければ、茨やおどろ(やぶ)になってしまいます。そして、雲にも雨を降らせないように命令します。ユダは、荒れ果てた挙句、干ばつにも見舞われるのです。


 日照りによって収穫をなくす。これは、預言者イザヤの出来る事ではありません。ここから、イザヤの愛する者は、神様であることがわかります。

追伸:

『5:7イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑。主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに、見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに、見よ、叫喚(ツェアカ)。」』

イザヤは、農夫は実は主であり、ぶどう畑はユダの家、すなわち主が楽しんで植えたぶどうの苗木はユダの人々であることを宣言します。神様はこれほどまでにユダを愛してくださったのです。いったいなぜ神様はこんなにもイスラエルを愛したのでしょう。神はぶどう畑であるユダの立派な成長を期待していました。この神様の期待に対して、イスラエルはどのように応答したでしょうか。選民である「イスラエルの家」のユダ王国とその首都エルサレムの住民(実質的にはその支配層)は、主の恵みと期待を裏切りました。裁かざるを得ないとイザヤは宣言しました。

 主は正しい裁判を期待していたのに、見よ、「流血」すなわち罪なき者の血を流す圧制が行われ、正しい政治を待っていたのに、見よ、「叫喚(きょうかん)」となります。「叫喚」とは、大声でわめきさけぶことです。暴虐圧制に苦しむ者の叫びです主の審判はこのような背教・反逆に対してやむをえないことをあらわしたものです。