マタイ9:1-13

マタイを弟子にする

  1.中風の人をいやす

 ガダラの豚の件で、ガダラから追い返されたイエス様は、ガリラヤ湖を舟で渡ってカファルナウムに戻ってきました。そこへ、中風の人を運んできた人々がいました。中風は、現代の医学を持っても、回復することは困難です。イエス様は、その人々の信仰を見て「あなたの罪は赦される」と言いました。ガダラでは、誰も病人を連れてきませんでしたが、カファルナウムでは人々がこの中風の人を癒してもらいたくて、連れてきていたのです。「イエス様なら癒してくださる」そう信じていたに違いありません。そこに、律法学者達が加わります。群衆との表現がありますので、イエス様が奇跡をおこすかどうかを多くの人が見に来ていたのでしょう。律法学者の中の一人は、イエス様に反感を持っていたのでしょうか? 「あなたの罪は赦される」と言うイエス様の言葉に対して「神を冒涜している」と思いました。それを、見抜いたイエス様が言われます。

なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。9:5 『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。9:6 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」

そう言って、この中風の人を癒します。中風の人は、イエス様の命令の通り、自分で起きて家に帰りました。群衆は、驚きました。これだけのことを行う権威を神様はイエス様にお与えになっているのだ、と。さて、律法学者は、「イエス様に罪を赦す権威は無い」と思いましたが、癒しの後では群衆に飲み込まれて、反応がわかりません。しかし、奇跡の癒しを見てイエス様の権威を認めたのでしょう。それだから、「神を冒涜している」と主張できなかったのです。考えてみれば、律法学者とイエス様のやりとりは、この物語が二回目になります。あのイエス様についてこうとした律法学者が、様子を見に来たのかもしれません。ここで、その律法学者が登場すると同時に、イエス様と対立が始まったと言えます。少なくとも、律法学者と違うイエス様の教えに、そして引き起こす癒しに律法学者の立場がなくなっていったと言えます。決してイエス様は、律法を軽く見ているわけではありませんが、福音書はイエス様の教えの違いを書き表した結果、律法学者と対立ばかりしているように見えるのかもしれません

2.マタイを弟子にする

 マタイは、徴税人です。カファルナウムで通行税を集めていたと思われます。当時の税金は、ローマに献げる1/10税とヘロデ・アンティパスの掛けた税金と神殿税があります。徴税人はローマとの契約で税金を集める権限をもらって、契約金額だけの税金を納めました。ですから、集めすぎた税金は手元に残ります。マタイは、通りかかるところにいたということなので、通行税でも取っていたのでしょう。徴税人は、ローマの手下という性格を持つものですから、ユダヤの民にとっては嫌われ者の売国奴と言うことになります。マタイの家で、この売国奴達と罪人達とイエス様が食事をしているのを見たファリサイ派の人々は、イエス様本人にではなく、弟子たちに言います。

『なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』

ファリサイ派の人々は、罪人とは一緒に食事をしなかったので、マタイの家の中まで入っていけなかったのでしょうか? 理由はともかくとして、この言葉はイエス様の耳に入り、言われました。

『わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』