Ⅰテサロニケ1:1-10

主に倣うものになっている

第二回伝道旅行で、パウロはテサロニケに行きました。シリアのアンテオケから出て、ピシデアのアンテオキアで北上(アジア州を避けた)し、トロアス経由でテサロニケに入ったのです。
(googleの画像から)

パウロは、テサロニケで伝道を始めました。そこで、暴徒に襲われベレヤに逃げますが、暴徒たちは追いかけて来ます。(使徒17:1-13)。パウロは一人で旅を続け、シラスとテモテは意欲的な人々を援助するためにベレヤに留まります(使徒17:14)。そして、シラスとテモテはコリントで再びパウロと合流しました(使徒18:1-5、コリント二11:9)。

テサロニケの教会への迫害をコリントで再会したシラス(シルワノ)とテモテから聞いたパウロは、テサロニケの信徒に励ましの手紙を書きました

そもそものテサロニケの暴動の理由は、使徒言行録に書かれています。

使徒『17:7~彼らは皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています。」17:8 これを聞いた群衆と町の当局者たちは動揺した。』

(参考)

マケドニア:テサロニケ、ベレア、フィリピなどの町のある州(テッサロニキは、現在でもギリシャ第二のです)

アカイア :コリントのある州(島)

主に倣う者

使徒『1:6 そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、1:7 マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。1:8 主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。』

パウロは、マケドニアから東洋へ向かう街道沿いにある、この地方随一の町で伝道しました。(東ローマ帝国の時は、コンスタンチノーブルに次ぐ第二の都市)アテネ、コリントより大きな町だったわけですから、伝道の拠点として相応しかったのです。(東西文化の行きかう街道にあり、また港があります

その反面、敵対するユダヤ人たちを作ってしまいました。使徒言行録17章によると、『「パウロとシラスの教えに、神をあがめる多くのギリシャ人と婦人たちがパウロとシラスに従った」ことを嫉んだユダヤ人が、ならず者を使って暴動を起こした。』これが、原因でパウロとシラスは、ベレアに逃げますが、そこにも追手が来て暴動を起こすものですから、パウロはさらに南に逃げます。その後、アテネを経由して、コリントで伝道をしていたパウロの所に、シラスとテモテがやってきました。パウロに、迫害があっても信仰を貫き、喜びをもってみ言葉を受け入れていたテサロニケの信徒のことを伝えます。早速パウロはシラスとテモテとの連名で、テサロニケの信徒に手紙を書きます。あなたがたの信仰の姿は、マケドニアだけではなく、アカイヤまで伝わっている。もはやあなた方は、私たちに倣う者というよりは、主に倣う者としてすべての信者の模範となっている。 と 励ますのでした。