コヘレトの言葉7:15-22

空しい人生の日々に 

 1.善人すぎるな、賢すぎるな/悪事をすごすな、愚かすぎるな

良いことをした善人が長生きするとか、悪人が早死にするとか、そのような事は言えません。むしろ、善人過ぎても特に得るものは無い上に、かえって滅びることもあるのです。そこで、「善人すぎるな、賢すぎるな」と忠告します。

逆に、悪人がその悪のゆえに長らえることもあります。それでも、それは極端な時でしょう。普通は、悪をして永らえることは無いのです。悪事を過ごすことは、寿命が来る前に死ぬことにつながります。そこで、「悪事をすごすな、愚かすぎるな」と忠告します。

「ほどほど・中間・皆に合わせ・偏らず」という勧めです。「善人すぎず、悪人すぎず」に代表されるように、良い方向だからと言ってかえって目立つことをするとか、悪事を働くことでは、命を長らえることは難しいでしょう。「ほどほど」これが人生の最大の処世術だと、コヘレトは説きます。

この言葉は、そもそも「善だけを行って悪を行わない人はいない」という前提があります。また、どの支店で見るかによっても、善と悪との評価は変わってしまいます。そんな中、善であることにこだわる必要はなく、また、悪であるからと言って絶望したりする必要はないのです。しかし、開き直って悪に徹するとか、善にこだわって、人を裁き続ける事は その報いをすぐにでも受けることでしょうそれは、愚かすぎる事であるからです。また、賢すぎるのも問題です。悪をもってその悪のゆえに生きながらえる賢さや、悪を全くしないと思わせる賢さは、必要のないことです。そのように、人を欺いて何になるのでしょうか?

 

2.ほかのことからも手をはなしてはならない

「善人すぎるな、悪人すぎるな」では、その中庸が良いと説いていますが、今度は反対に、「一つを掴み、他からも手を離すな」と、両方にこだわれと記されます。「真ん中ではなくて、両方とも狙え」とコヘレトは言うのです。

しかし、聖書は、「二人の主人に仕えることはできない」とも教えています。(マタイ6章24節)。仕えるべき主人は、神様です。コヘレトは、「神様を畏れ仕えていれば、その矛盾したような2つのことを成し遂げることができる。」そのように説いているのです。

「善人すぎるな、悪人すぎるな」は、人の知恵でありますから、そのように賢くふるまえば良いでしょう。一方で、「神様を畏れる」ことは、人の知恵ではありませんし、直接的な処世術でもありません。しかし、「神様を畏れる」ことによって、私たちの上に、神様の知恵が働きます。

「神を畏れ敬う」ことから得るものが、自分を愛し隣人を愛する豊かな人生を作り出します。

3.知恵は賢者を力づけて

知恵を持つ賢者は、十人の権力者よりも強い者となると、コヘレトは言います。問題は「どんな知恵」かです。もちろん、それは人間の知恵ではなく神の知恵のことです。

「人間は皆罪人なのだ」とコヘレトは、きっぱり言い切ります。

罪人同士が、共に生きていくためには、権力よりも知恵が必要です。力で従わせるのではなく、お互いに受け入れあうことができる生き方が求められます。良いことをするときも、悪いことをするときもある私たちです。裁くこと、裁かれることは必要でしょうが、何時その立場が変わるかもわかりません。許すこと、許されることも同じように大切なのです。そこには、神様の愛と知恵が必要です。

4.いちいち気にするな

たとえ呪いの言葉だとしても、いちいち人の言葉は気にすることはありません。そもそも、あなた自身も人のことを呪ったではないですか? だから、気にしないで聞き流していなさい。 そんなことをコヘレトは言います。言葉は、発した人にとっては、大した根拠や攻撃する目的があるわけではないでしょう。その証拠に、あなた自身が、だれかを呪ったときも そのことをすぐ忘れるくらい、大したことではなかったのです。それを思うと、気にする必要はないでしょう。あなたを呪うその言葉も、あなたが呪った言葉と同じ様に軽いものなのだから。

しかし、まったく気にするな と言うことではありません。「いちいち気にするな」なのです。人の言葉は、気にする必要はあるのです。それは、あなたは悪を全くしないわけではないからなのです。気が付かないうちにしてしまったことは、人の言葉から聞き取るしか、気が付く方法がないからです。気が付かないと、また、その悪を続けてしまうでしょう。