マルコ13:32-37

  目を覚ましていなさい

  イエス様の言われる「その日、その時」とは、何の事でしょうか?「この世の終わり」「終末」と言う言葉を聞いたことがあると思いますが、何かおどろおどろしいこの世の終わりみたいな印象を持つと思います。キリスト教では、「終末」や「この世の終わり」を「救いが到来する時」という意味で、新しい救いの時が始まることを指します。古い時代は終わる。つまり、古い時代は終末を迎えるのです。しかし、その救いの到来、新しい時の始まりが、いつ来るのかは誰も知りません。天使たちも子なるイエス・キリストも知らない。父なる神だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさいと言うのです。 

1.再臨

 再臨(さいりん)とは、キリスト教神学の用語。復活し、天に昇ったとされるイエス・キリストが世界の終わりの日に、キリスト教徒を天へ導き入れるため、また、世界を義をもってさばくために、再び地上に降りてくることである(『ヨハネの黙示録』を参照のこと)。(wikipediaより)

使徒信条の下線部が、再臨の信仰を現しています。

我は天地の造り主(つくりぬし)、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子(ひとりご)、我らの主(しゅ)、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生(うま)れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架(じゅうじか)につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審(さば)きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。

アーメン                              — 「新聖歌」より

使徒信条は、キリスト教の信仰を表したものですから、この使徒信条を信じている人が一般的にキリスト教徒と言えます。使徒信条は教会の信仰告白でありますから、個別の教派や教会で作成しているのが一般的です。バプテスト教会では、使徒信条の信仰を自分たち教会員の言葉に置き換えた「教会の信仰告白」を作成して用いています。

なお、使徒信条に出てくる審きについては、以下の黙示録を参照ください。

黙示録『◆最後の裁き

 20:11 わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。20:12 わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。20:13 海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。20:14 死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。20:15 その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。』

2.目を覚ましていなさい

 

 「イエス様の再臨の時は、神様しかわかりません。だから、目を覚ましていなさい。」

 家の主人が帰るまで、その与えられた任務を果たせるように、しっかり起きていなさい。特に門番は、起きていなければ門番として機能しません。しかし、目を覚まさずにいたらどうなるのでしょうか?黙示録20:12を見ると、「行いに応じて裁かれた」とあります。つまり、寝てしまったがために「主人であるイエス様のご命令を守っていない」のであれば、その事実に基づき裁かれるということでしょうか?そのような裁きに会わないように、「目を覚ましてご主人であるイエス様が帰ってくるまで、イエス様のご命令を守り続けなさい」と読めます。

 「だったら、いつその時が来るかを神様は教えてくれればいいのに」とは、思ってしまいますが、私たち人間は、そのイエス様が再臨される時に合わせて、その直前まで寝てしまうでしょう。そして、にわかに目を覚ましてから、体裁を整えてイエス様を待つことになってしまうのだと思われます。

 パウロが活躍したころは、再臨はすぐに来ると考えられていましたので、「裁かれる」覚悟のできている人たちなのでしょうか、「世の終わりが来るまで楽しく暮らす」ことを考え、行動した人々がいました。それが、なかなか想像していたような「世の終わり」が来ないので、その時が来るまで、しっかりとイエス様への信仰を守り、イエス様のご命令に従おうという考えが一般的理解になったと思われます。

 一方で、「世の終わり」はすでに来たとの考え方もあるようです。そして、それに気が付かないのは、私たちの鈍さにあるとして、すでに新しい世界が始まっていると言うわけです。確かに、神様しかいつ起こるのかわからない「終わりの時」ですから、私たちが「終わりの時」が来たことを知ることはできないのかもしれません。