ローマ9:19-28

 神様の御心

2023年 7 23日 主日礼拝  

神様の御心』  

聖書 ローマの信徒への手紙9:19-28 

今日は、ローマの信徒への手紙から、「神の御心」についてのお話です。私たちは傲慢であります。ですから、私たちにとって都合の良い神様を頭の中に描いてしまいます。そして、正義とはこうあるべきだと思うと、それをそのまま神様に押し付けようとします。パウロは、そういった人の傲慢さについて、旧約聖書に立ち返って、話しました。

 『ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか』

 このパウロの言葉は、パウロと論争している人たち、つまりファリサイ派の人々と律法学者たちの主張です。パウロは、「良く相手が使う主張」を取り上げて、それが正しくない事を証明しました。あなたの言うことが正しいとしたら、こういう矛盾が出てきましたよ。と言う格好ですね。まずは、反論しないで同意から始めるわけです。そしてその主張がもつ問題点を指摘して、その本質を解き明かします。 発端はこのパウロの言葉にあります。

『9:18 このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。』

 神様は、御心に従って、人を憐れみもすれば、頑なにもします。すべては神様の御心であるとパウロが言いました。それに対して、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「だったら、神様が決めたのだから、神様の責任でしょう。」と言いたいわけです。そして、「神様が、決めたら誰も逆らえないのだから、人を責めるわけにはいかないよね!。」ということなので、なんとなく理屈はあっているように聞こえますが、なにか違和感があります。

パウロは、早速その言葉を批判します。

『9:20 人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。』

パウロは、口答えと言いました。口答えとは反論の事ではありません。目上に対して逆らって言い返すことです。神様に対して「私を頑なに作ったのは神様なのだから私には責任がありません。何故、神様はわたしを頑なに造ったのですか?」と言い返したと考えてください。責任転嫁した上に、神様の御心について、批判したことになります。明らかに、これは口答えです。また、口答えした本人には、悔い改めの意志が見られません。


 そこで、パウロは、その口答えを問い詰めていきます。

『9:21 焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。』

これが口答えだとの根拠であります。イザヤ書、エレミヤ書にも同様の譬えがあります。

イザヤ『64:7 しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工/わたしたちは皆、あなたの御手の業。』 (エレミヤ18:3-10)

 この世界全てを造られた神様は、被造物である人間に対して、全くの自由意志でどうにでも出来るのです。またそうなさっています。例え、それが人間の物指しで見て、倫理的・道徳的に問題のある行為であろうともです。神様は自らが良しと思われることを、自由に行うことが出来ますし、またそうなさっています。 私たちは、「神様はこういうことはしない筈だ」とか「神様はこうして下さる筈だ」とか言って、根拠のない「禁止」や、勝手な「要求」を神様に押し付けます。しかし、それは本当は出来ないことなのであります。その行為は、人間のして良い範囲を超えているのですね。私たちは、粘土でしかないのですから、焼き物師の思うように造形され、そして色を塗られればよいのです。そもそも、粘土にはきれいな壺にしてくれとか、絵皿に焼いてくれとは、言う機会さえないのです。当然、口答えなどはありえません。しかし、人は必ずつぶやくのです。


 神様は時として理不尽な命令をします。たとえば、アブラハムにイサクを献げよとの命令(創世記22:2)があります。年を取ってから、ようやく生まれたわが子を犠牲として献げなさいという残酷な命令です。どうして、神様はこのような命令をなさるのか? そして、どうしてアブラハムは黙々とその命令に従うのか? 私たちは結末を知っていますので、あまりドキドキしないですが、アブラハム、イサクとも その時、絶望のなかにあったのだと思います。結果的にイサクは命を保ちました。しかし、この物語を読む私たちは、どう思ったのでしょうか? ひどい命令だと思っているわけです。ですから、「息子を捧げさせてはならない」と神様を戒めたくなるわけです。

 そこが、根本的な間違いであります。造り主である神様は、どんなことも出来るのであります。それを人間が禁じることは出来ません。もし被造物に過ぎない人間が神様の事を、こんなことをしてはいかんと叱ったり、良くやったと褒めるならば、それは極めて傲慢な話であります。なにが傲慢かと言えば、粘土でしかない人間が焼き物師である神様を裁いているのですね。しかし、その傲慢さに気がつかないのです。


 結局、神様は、イサクの血による犠牲を求めませんでした。実は、それだけではありません。この物語によって、当時パレスチナで普通に行われていた、初子(ういご)を犠牲に献げるといった風習は、途絶えたと伝承されているのです。神様の御心は、そこにあったのかもしれません。私たちの人間の知恵や知識では、計れない事を神様はなさっているのです。

 注目すべきは、アブラハムです。神様の命令に黙々と従いました。私たちの感覚から言うと、なりふり構わずに「わが子は大事」と言うことになります。しかし、アブラハムはどう考えていたのでしょうか?・・・ そもそもイサクが与えられたのは、不妊の妻への神様の憐れみでした。そして、命。子供の命も親の命も神様から頂いたものです。すべては、神様のものなのです。それなのに、私たちは子供を自分の持ち物のように扱っているのです。


 パウロは、焼き物師が土をこねて造形するように、神様は自由に一人一人の人間を作られたということを強調しました。神様による個性作りや「憐れみたい人」を選ぶことは、ある意味不公平に見えます。しかしその考えは、神様の自由な意志、御心を否定することになります。神様を否定する者は、ひいては、神様の上に立って、神様に自分の考えを押し付ける者になります。その行いは、自分自身を神とするに等しく、偶像礼拝とほぼ同等な罪であります。

 パウロは、このように神様の自由な意志である御心を強調しました。この神様の御心にこそ、われわれ選ばれた者、キリスト者が救われる根拠だからです。パウロは選ばれることに、拘らないではいられないのです。


 パウロは、神様の憐れみを受けた者の役割として、すべての人が憐れみを受けることを目指して、伝道をしました。パウロが言いたいことは、22,3節に書かれています。

『9:22 神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、9:23 それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう』


 『怒りの器』とは、直接的には、神様の怒りを受けるために造られた器という意味であります。しかし、このすべてが滅びるわけではありません。神様の憐れみを受け取った人は滅びないのです。

 同じ様に、私たちの救いもまた、神様の愛、憐れみにしか根拠はないのです。私たちは神様から憐れみを受けました。それなのに、「神様のなさりようは不公平だ、これでは、私は満足しない」 と、神様を責める。そんなことを、私たちはしているのです。

『憐れみの器』とは、直接的には、神様の憐れみを受けるために造られた器ということであります。『憐れみの器』とは、選ばれたものであり、イスラエルがそうであったように、神様の憐れみを受けるために造られたものであります。そして福音を受け入れた人は、最大の憐れみである罪の赦しを受けるのです。


 神様はその自由意志、御心によって、異邦人の中からも、「憐れみたいと思う者」を選びます。もし、異邦人への伝道に反対する人がいたならば、それは、神様の御心を否定するものです。神様は、ユダヤ人からも、異邦人の中からも憐れみを受ける者を召し出します。私たちの教会に、富める人からも、貧しい人からも、社会的地位の高い人からも、そうでない人からも、健康な人からも、病弱な人からも、憐れみを受ける者として、『召し出してくださいました』。神様が、神様のご意思で『召し出した』このことだけが、私たちの教会の存在理由であります。なぜならば、私たちは神様の御心によって生まれ、そして育てられ、そして教会に導かれたからです。

 25節にホセア書2:25 2:1からの引用があります。

まず、異邦人への憐れみです。

ホセア『2:25 わたしは彼女を地に蒔き/ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみ/ロ・アンミ(わが民でない者)に向かって/「あなたはアンミ(わが民)」と言う。彼は、「わが神よ」とこたえる。」』

次に、見捨てられたイスラエルの人々を神の子らとする宣言です。

ホセア『2:1 イスラエルの人々は、その数を増し/海の砂のようになり/量ることも、数えることもできなくなる。彼らは/「あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)」と/言われるかわりに/「生ける神の子ら」と言われるようになる。』

 パウロは、しばしば旧約聖書から引用して、旧約の時代にすでに預言されていたことを説明します。パウロ自身が、ガマリエルという著名な学者から旧約聖書学んでいました。また、多くの人々が旧約聖書の権威を認めていたからだと思われます。パウロが言った「ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。」との言葉を旧約聖書を使って裏付けたのです。

同様にイザヤ書からも引用します。

イザヤ『10:22 あなたの民イスラエルが海の砂のようであっても、そのうちの残りの者だけが帰って来る。滅びは定められ、正義がみなぎる。10:23 万軍の主なる神が、定められた滅びを全世界のただ中で行われるからだ。』

この部分は、バビロン捕囚からの帰還を預言したものです。滅びないで神様の憐れみを受けるイスラエルの民がいることを預言していると言えます。

 「神様は、怒りの器である異邦人をも憐れみを与え救おうとしている」「そして、本来慰めの器として造ったイスラエルの民も見捨てずに、神の子たちとしようとしている」 この二点が神様の御心なのです。神様は、すべての人に憐れみをくださろうとしています。この一方的な神様の愛には、感謝しかありません。「怒りの器として造った異邦人」にも、「神様を何度も何度も裏切ったイスラエルの民」にも、神様は憐れみを下さるのです。だから私たち全ての人々は、神様の憐れみを頂けるのです。そして、神様はその憐れみを一人一人が受け取ることを待っておられます。そこに、神様の御心があります。世界中の人が、神様の憐れみをたくさん受けとるように、祈ってまいりましょう。