ヨハネ21:15-25

 わたしを愛しているか

2021年 5月 25日 主日礼拝

『わたしを愛しているか』

聖書 ヨハネによる福音書21:15-25


今日の聖書の箇所は、ペトロがイエス様から『わたしを愛しているか』と三度も問われたところです。有名な箇所なので、何度かアガペーの愛のお話は聞いたことがあると思います。日本語で「愛する」とは、かわいがる、恋する、好みのものに親しむ、かけがえのないものとして大切にする、 機嫌をとる、 気に入ることを指します。広い範囲の感情を示すわけです。一方で、新約聖書が書かれたギリシャ語には、「愛する」という言葉が、4つあります。

アガペー(αγάπη)、フィリア ( φιλíα ) 、エロース(έρως)、ストルゲー( στοργή )です。

アガペーはイエス様の無条件の愛、フィリアは友情の愛、エロースは恋愛の愛、ストルゲーは家族の愛です。そのなかで、ヨハネによる福音書に使われているのは、無条件の愛アガペー と、友情の愛フィリアでありまして、使い分けがされています。

 

今日の聖書の箇所では、このような会話が三度続きます。

 『イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。』

ここで、イエス様が使われた「愛」はアガペーです。何の条件も付けずに一方的に愛するイエス様の愛です。

 

そしてペトロは答えます。

『ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。』

ここでペトロが使った「愛」は、フィリアです。友情の愛です。

 

アガペーとフィリアにはどのような違いがあるかと言うと、無条件と条件付きの違いです。アガペーが無条件で一方的な愛であるのに対して、フィリアには少しだけ条件があります。友達関係の強さによって変わる愛と言えばよいのでしょうか?友達関係から得られるメリットがなくなると、残念ながら崩れてしまうと言う事でしょうか? イエス様の愛であるアガペーが無条件なのに対し、「それだから」というある意味で「見返りを期待した愛」のようにも感じます。

ヨハネによる福音書では、一貫してアガペーを使われています。愛が出てくるのがヨハネには37節ありますが、フィリアを使っているのは、今日の聖書の箇所と他には7節だけです。そして、エロースとストルゲーは使われていません。

ヨハネから3つほど、フィリアを使っている箇所を上げたいと思います。

 

・自分の命への愛

『12:25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。』

   自分の命への愛が、アガペーではないのも興味深いです。アガペーは、私たちの持ちえる愛ではないという事でしょうか?

 

・身内の愛

『15:19 あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。』

   身内の愛ですら、アガペーではないという事でしょうか?。

 

・父の愛

『16:27 父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。』

   天の父の私たちへの愛もフィリアが使われています。このことに驚きを感じます。しかし、その神様が私たちを愛する理由が、「私たちがイエス様を愛し」たからです。その私たちのイエス様への愛には、フィリアが使われています。

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他の4例は、宣教ではお話しませんでしたが、紹介します。

・親子の愛

『5:20 父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。』

・イエス様以外が使うイエス様の愛

『11:3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。』

『11:36 ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。』

・イエス様が愛しておられたもう一人の弟子

『20:2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」』)

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この様に、一方的な愛であるアガペーの愛を持ちうるのは、神様とイエス様だけという事です。ですからヨハネによる福音書のアガペーは、イエス様の愛を指すという理解で良いと思います。イエス様の愛は無条件で、無限ですので、私たちの持つ愛とは区別して、ヨハネは書いたのだと思います。

 

ペトロは三度、イエス様から「わたしを愛しているか」とアガペーの無条件の愛を聞かれましたが、ペトロは三度とも「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」とペトロは友情の愛フィリアで、答えました。

一般にこの箇所では、ペトロがイエス様の言う無条件の愛を約束することが出来なかったと解釈されています。

三度もイエス様に聞かれて、ペトロは同じ様に返事をしました。何度も聞くという事は、その答えでは不十分だと考えられるのですが、イエス様はペトロの返事に不満で三度聞いたのでしょうか?・・・本当にそういう事だったのか、少し疑問がわいてきました。

 

と言うのは、最近の国会答弁や首相のインタビューでは、答えをはぐらかされて聞き直し、結果、何回も同じ様な質問を繰り返すような場面があります。その場面と比べると、同じような構図には見えないのです。ペトロはイエス様の問いに対してはぐらかすつもりはなくて、真剣に真正面から答えたのだと思います。 そして、イエス様もペトロの答えで十分だったのではないかと思うようになりました。なぜかと言うと、三度も聞かれるイエス様に、ペトロが悲しんでいるからです。ペトロが、イエス様の質問をはぐらかそうとしていたならば、悲しむわけがありません。そして、イエス様に従うことを固く決意していたからこそ、悲しんだのではないかと思われます。

そして、三度もイエス様が聞いたことで、あの鶏が啼く前に三度イエス様を「知らない」と言ったペトロの失敗を連想してしまいます。ペトロもそれを思い出しました。 ペトロは、ここでイエス様を愛すると言っておいて、また「イエス様を知らない」と言うのではないかと? そうイエス様が疑っているかと思うと、心が張り裂けそうでした。しかし、今のペトロは違っていたのです。三度聞かれても、ペトロの力を超えた、出来そうもないアガペーとは言わなかったのです。

おっちょこちょいでお調子者のペトロですから、いつもなら無条件の愛であるアガペーで答えてしまうところです。ペトロのこれまでの行動からは、そのようにするでしょう。

しかしペトロは、今度はそうしませんでした。あの、鶏の事件の時は、イエス様に『あなたのためなら命を捨てます』と言っておきながら、ついていけませんでした。(『13:37 ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」』)

 その出来事で、ペトロは自分の限界を知ったのです。ですから、そこを意図して「友情の愛」を 三度とも約束したのではないかと思われます。この時のペトロは、イエス様の十字架と復活の業によって変えられていた と考えて良いでしょう。

こうしてペトロは、この時から地に足を付けて、イエス様に従って行けたのです。

 

今日の聖書には、もう一人この福音書の著者とされるヨハネがいます。ヨハネはこの福音書の中では、「イエスの愛しておられた弟子」として登場します。ヨハネはペトロの後をついてきました。つまり、イエス様に従って歩んできているのです。

実は、この文面を読むと21章全てがヨハネの作は言えないことがわかります。明らかに、他の人が後日加筆しています。著者ヨハネが「イエス様の愛する弟子」であることを明かしたり、イエス様に従ったペトロが後ろを見るとヨハネも従っていたりすることから、ヨハネに近い人がヨハネの歩みを憶えて、書き足したのだと考えても不自然ではありません。そして、この部分を書き加えた本人は、イエス様のされたことは「一つ一つ書ききれない」と福音書を結んでいます。

 

今日の箇所はアガペーの愛と、フィリアの愛の違いに注目が集まりますが、実は、あまり注目されませんが、イエス様の言葉も微妙に3つあります。

 

「わたしの小羊を飼いなさい」(βόσκε ἀρνία直訳:小羊に餌をやりなさい)

「わたしの羊の世話をしなさい」(ποίμαινε προβάτια直訳:羊を飼いなさい)

「わたしの羊を飼いなさい。」(βόσκε προβάτια直訳:羊に餌をやりなさい)

  三度目は、加えて「私についてきなさい」とイエス様は言いました。

 

小羊とは、イエス‐キリストのことです。また、イエス‐キリストを羊飼いに、人間を小羊や羊にもたとえます。また、「飼いなさい」の原語は「餌をやりなさい」との意味ですから、「み言葉を取次なさい」と解釈してよいのかと思います。そして、世話をしなさいの原語は、羊飼いの役割を担いなさいとの意味です。

 

羊を飼うことはエサやりの「給餌」をすることだけではありません。羊飼いは、群れを守り、指導することも仕事です。このことを前提に、イエス様のこの三度の言葉の意味を考えてみましょう。

一度目は、「人々にみ言葉を届けなさい。」そして二度目は、「信仰の群れを守り、指導しなさい。」です。そして、三度目は一度目の「人々にみ言葉を届けなさい」に加えて、「私についてきなさい。」とイエス様は、その度に命令を加えていたのです。

イエス様は、三度目の「私についてきなさい」と言った時は、これからのペトロには捕まったり、命の危険があったりすることまでも予告しています。ですから、イエス様は、一つ一つ段階を踏んでペトロの従って行く決意を確認していたのです。たぶん、ペトロの答えに不満だったのではなく、今この時からは、最後まで従ってこられることを確信しておられたのだと思われます。

 

今日は、イエス様の復活の説教の最終回として、この箇所を選びました。イエス様の復活は、弟子たちに大きな出来事でした。そして私たちクリスチャンも、こうしてイエス様に従って行くことを決意するチャンスであります。イエス様は、「私を愛しているか?」といつもお聞きになっています。私たちは、無条件の愛でお答えすることはできませんが、それでもペトロの様に、何度も「イエス様を愛しています」とお答えしたいのです。だから、イエス様からお声がかかったら、「はい、従います」と言えるといいですね。以前は、イエス様に従っていけなかったペトロもこうして、イエス様の復活を機に生き返ったように立ち直り、イエス様に従って行ったのです。私たちも大丈夫なのですイエス様に従ってまいりましょう。そのイエス様に従って行けるその力は、イエス様から頂けばよいのですから。私たちには、イエス様の愛を届ける力はありませんが、イエス様は私たちの行く先々で、その力を与えてくださるのです。そこには、平安があるでしょう。