ルカ8:4-15

神の言葉を聞く

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 「神の言葉を聞く

 聖書 ルカ8:4-15

今日はルカによる福音書から、「種を蒔く人」のたとえ話です。イエス様は、たとえ話をよくされました。そして、イエス様の譬えは、理解し難い場合がしばしばあります。たいへん珍しいことに、今日の聖書箇所では、イエス様自身が解説されています(11-15節)。そういう意味で、今日の箇所は解説通りに私たちも理解すれば良いから分かりやすいと思われます。一般に譬え話は、難しい話を分かりやすくさせるために、身近な事に置き換えてるものです。しかしイエス様の場合は、時には聴衆には理解させないためだとか、かたくなにさせるために、譬えを語る場合があります(9-10節。イザヤ書6章9-10節)。そういう意味で、イエス様の譬えを読み解くことは難しいことが結構あります。弟子たちにはわかるように、そして聴衆にはわからないようにするために譬えを使ったのであれば、イエス様の譬えが私たちにとってわかりにくいのは、当然なのかもしれません。

 

 今日の聖書の箇所は、イエスご自身の解説に委ねるとしましょう。

その前に、イエス様の語った譬えをよく読みこんでみましょう。まず、「種を蒔く人」ですが、イエス様自身が『種は「神の言葉」』と言われていますから、「種を蒔く人」とは、イエス様自身を指していると考えてよいでしょう。イエス様が「みことば」をあちこちで蒔きました。道端で蒔き、石地で蒔き、茨の中に蒔き、そして良い土地に蒔きました。道端に蒔かれた種は、踏みつけられて、その命を失い、そして鳥によって食べられて、完全に影形がなくなってっしまいました。石地に蒔かれた種は、踏みつけられることなく、芽を出しますが、水がないので枯れてしまいました。それでも、「神の言葉」が芽生えた事実はそこにあります。そして、茨の中に蒔かれた種は、茨との成長競争に負けてしまうのでした。それでも、一時的ではありますが、「神の言葉」は茨の中で成長していたのです。最後に、良い土地に蒔かれた種は、100倍にも「神の言葉」を増やしたのです。そこまで譬えを言われたイエス様は、『聞く耳のあるものは聞きなさい』と大声で言います。このイエス様の言葉も、分かりにくいですね。原語から直訳すると、「聞くための2つの耳を持っている人は、聞きなさい」なのですが、わざわざこの言い方をするということは、「注意して聞いていない」、「聞いているだけでよく考えていない」と言うことだと思われます。福音にあずかるためには、「神の言葉」を注意して聞いて、よく考え、祈って、受け入れることです。さらには、「神の言葉」に仕える決心と自分なりの献身への行動によってこそ、「神の言葉」を100倍にも増やすことになります。イエス様が、「聞く耳」と表現しているのは、「神の言葉に聞き従う心」のことを言っているのです。

 

では、イエス様ご自身の解説から、この譬え話を読んでみましょう。

 

「種を蒔く人」とは、イエス様です。「種」はイエス様が語る教えや、「神の言葉」です。「道端」「石地」「茨の中」「良い土地」は、イエス様の教えを聞く人々の心を指します。この場面では、「聞く耳のある者は聞きなさい」がもっとも言いたかったことであります。「み言葉を聞いて行う人になりなさい」という積極的な招きなのです。つまり、種が芽を出して、根を下ろして、育って100倍の実を結ぶことは、神様の言葉を「聞いて行う」努力をする信者になることを意味します。

 

 この前提には、「よく耕されている土地」のような柔軟で、豊かな心を持つべきという思いが示されています。頑な心では、「神の言葉」を十二分に受け入れることは、できません。それは、道端や石地では種が根を張ることができないのと一緒で、そのような固い土地に譬えられるかたくなな心には、信仰が根差すことは難しいのです。また、人の足や動物の足に踏まれるための役割である道は、人に仕える心を「譬え」ていると思えば、このような心では「神の言葉」を受け止め続け、聞く姿勢を維持することはできません。

 一方で、柔軟な心であっても、成長しようとの思いが継続しなければ、茨の中にいるように、「神の言葉」の芽が出ても種を実らすまでに至らずに、茨と言う誘惑に覆われてしまいます。

 

 全ての人は良い土地となれれば良いのですが、残念ながら、「神の言葉」をはぐくむことができるかどうかは、どの土地に生まれたかで決まると言えます。道や石地として生まれた人が、自分を良い土地に耕すことはできないからです。人間の努力だけでは、聞く耳のある人になれないのです。その一方で、「神の言葉」に視点を向けると、「神の言葉」を聞く機会は、すべての人に与えられているように考えられます。イエス様は、全ての人に「神の言葉」である種を蒔いておられるからです。そういう視点で、イエス様の解き明かしを読み取って参りしょう。

 

 最初に道端です。道端は、畑ではありませんし、足がとられないように踏み固められますから地面は硬くなっています。また、その道を耕そうということもありません。人々の往来のための土地なので、そこに蒔いた種が芽を出すことは期待されていないからです。そして、道端は人々に仕える心ですから、価値観の異なる「神の言葉」が育ちにくい場所です。道端に落ちた種は往来する人々に踏みつけられ根を下ろすことも困難なので、鳥に食べられてしまう事もあるでしょう。イエス様は、道端の人の心には、「神の言葉」が入ってきていたとしても、悪魔が来て、その種をつぶし、そして奪ってしまうのだと説明します。皮肉なことには、道端で教えているイエス様の言葉であります。教えを踏みつぶしていこうとするのは、ファリサイ派の人々の事なのでしょうか?イエス様の路傍伝道は、実りがないのでしょうか?いいえ。決してそのようなことはありません。イエス様は「神の言葉」が無駄にならないように、「聞く耳のあるものは、よく聞きなさい」と、「神の言葉」に従うことをお教えになっていたのです。

 

 次に石地ですが、石地は道端よりもさらに硬いものです。石地は、建築用の材料としては良くても、その硬さのために植物が根を張るにはふさわしくありません。そしてもう一つの問題が石地に根を張ったとしても、そこから水分を吸い上げることができないことです。そういう意味で石地は、頑な心、つまり「神の言葉」を受け入れることを拒む頑固さをもち、そして、形式的に律法を重んじる態度を象徴しているのだと思います。たぶん皆さんも、ファリサイ派の人々を思い浮かべると思います。自身のやり方考え方を主張して、かたくなである姿をです。

 道端と石地に種を蒔くことは、種が実りを結ぶ目的から見ると、そもそもふさわしい選択ではありません。道端に生まれた人にとっては、種を実らせるために必要な条件が整っていないばかりか、その「神の言葉」を奪っていく者たちがいます。また石地に生まれた人にとっては、厳しい律法を守るという価値観だけが独り歩きしている土地ですから、律法を形式上守ることに熱心ですが、神様と人をも愛することに熱心ではないのです。それでも、自分自身の名誉と財産は愛します。こうして、石地に生まれた人々は、自分を愛し、自分の利益を求めることに誘惑されるのです。石地に生まれた人にとってこの悪魔の誘惑は、「神の言葉」である律法を、私物化しているといえるでしょう。石地では、「神の言葉」はうまく育ちません。

 茨の中は道端や石地と異なります。土地自体は、畑を指しているのようです。人々に踏まれること、空の鳥がつまむことも、乾いて枯れることもなさそうです。ところが手入れが悪いのでしょうか、良い土地にはなりうる場所であるのに、雑草が一緒に育ってしまっているのです。そして、育ってほしい種の成長を雑草が邪魔します。そして、この土地では雑草が抜かれることがありません。雑草が同居することを許してしまっているからです。「神の言葉」と富と快楽が同居していて、その選びに思い煩っているうちに、雑草の方が勢いが良くなってしまうのです。ここでは、頑固な心の逆で、軟弱な心が批判されているのでしょう。

 茨の中の土地に生まれた人は、決して悪い人たちではありません。むしろ神と人を愛したいと願っている人です。しかし意思が弱く、その他のことを優先して、「実が熟する」まで至らないのです。生まれつきの性格なのでしょうか、誘惑に負けてしまうことは多くの人々にとって、普通に起こることです。

 

 道端、石地、茨の中この三つの心は、人間の根本的な性質を表しています。罪と呼びます。罪を背負って生まれた人間には、神様と人を愛する事は難しいのです。また、神様と人を愛したいと思う人であっても、信仰を続けるための強い意志を持っていません。ですから、自らの罪を正して、良い土地になることを目指しても、自分の力ではどうにもならないのです。

 

 それでは、どうしたら良いのでしょうか? 少なくとも、良い土地にするためには、石を取り除いて、耕し、そして雑草を取るという手入れをしなければなりません。また、畑以外のところ(道端、石地)に種を蒔いては、収穫は期待できないのです。農場の主人は、どの畑で何を収穫するか?どれだけ新しい畑を作るかを決めます。それは、創り主である神様のことを指します。また、種を蒔く人は救い主であるイエス様のことです。

 

 蒔かれた種が実を結ぶかどうかは、すべて農場の主人と農夫の行動にかかっています。ですから、人々が、「神の言葉」を実行して神様と人を愛するように生まれ変わるかどうかは、神様と神の子イエス様にかかっています。私たちの救いは、全くもって徹底的に私たちの力に依存しないのです。

 

 そこで、私たちのできることと言ったら、祈ることだけです。良い土地になりたいと祈ること、信仰を邪魔するものをのけてほしいと祈ること、「石地」を「自らのかたくなさ」をのけてほしいと祈ることです。そして、畑をよく耕し雑草が増えないように手入れをして欲しいと祈ることです。その上で「種」を「神の言葉」をいただきたい。そう祈れば、かつては的外れだった土地「道端」にさえも、「神の言葉」を聞いて行うことができる心が与えられるはずです。自分の悪さや弱さを認めて悔い改め神に祈ること。無意識のうちに、神様と人を傷つける私たちの心を変え、誘惑にあわせず悪から救い出してくださいと祈ることです。十字架のイエス様。この贖い主を通して神様に向かって祈るのです。イエス様を信じて祈れば、あなたに蒔かれた実が実るのです。イエス様は、どの土地に蒔かれた種でも実を結ばせることができるのです。