ルカ13:1-17

 狭い戸口

 

1.からし種とパン種のたとえ

 安息日論争が決着し、まだシナゴーグの中に人々がいて、イエス様の教えを聞いています。神の国の働きは霊的に、慈善的に拡大します。からし種もパン種も非常に一つ一つは小さく、とるに足らない物と思われます。しかし、からし種は成長すると、「木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」程です。これほど神の国の働きは拡大するのです。また、女性が粉とパン種を混ぜると、大きく膨らみます。名もない女がしたことによって、神の国の働きは拡大するのです。神の国は拡大する霊的、慈善的な働きです。それは、外向きにも、内向きにも拡大するのです。「鳥が巣を作る」ように、外向きの慈善的な働き。そして、パンが種で膨らむように、み言葉が教会の中で発酵することによって霊的に成長する働き。そして、それが私たちの霊的・慈善的働きをさらに連鎖して成長させ、拡大する力になっていきます。


2.狭い戸口

 イエス様がエルサレムに向かって旅をしていたとき、人々は危機が間近に迫っていると感じました。だから、神の国で何人が救われるかを知りたいと思いました。その人数で、自分が神の国に入れるかどうか可能性を考えるためです。つまり、迫りくる危機への不安です。その結果、彼らは救われるだろう人の数が少ないのでは?と尋ねます。この憶測に対して、イエス様はたいへんに重要な答えで返します。イエス様は彼らに、多くの人が偽りの理由で入ろうと努力しているが、真の理由で入ろうと努力するべきだと彼らに告げました。狭い戸口は、入りにくいし、大きな荷物(財産・名誉等の欲望)を持ったまま入ることは出来ません。広い道なら力ずくで荷物を持ったまま入れるのではないかと試すでしょう。しかし、神の国にはイエス様を信じない限り入れないのです。そして、イエス様を信じイエス様に従う道は、自分を信じ自分に従う道と比べきわめて細いのです。「悔い改めない」と入れない。と言うことです。一説ですが、広い戸口とは普通の門であって、普段は開いていません。そしてくぐり戸があって、そこからしか普段は出入りできないのです。そのくぐり戸こそが悔い改めてイエス様を信じると言う、狭い戸口なのです。

 イエス様は、数について答えたのではなく、狭い戸口に入るように努力しなさいとの指示をしました。多くの人は、神の国はどういうものかよりも、憶測や宗教的論争にはまっています。彼らは個人的な救いを確認するよりも、逃げ出すべきかどうかの方に興味があるのです。さて、イエス様の時代の狭い戸口とは何でしょうか?広い門と広い道が栄光に満ちた世俗的なメシアへの期待であったことと比べてみましょう。それは屈辱的なメシアとしてのご自身の十字架への道でした。ローマに勝利する等の世俗的な名目に自分自身を結びつけるのは簡単です。霊的な準備は必要ありません。しかし、イエス様の歩む道、それは容易ではありませんでした。しかし、イエス様のすべての悲しく屈辱的な経験を通して軽蔑されるメシア。この使命をはたすために、自ら神様に祈って従う努力が必要でした。また、キリストの大義は世俗的な勝利にはありません。私たちは、自分自身をイエス様と同じように追い込むことはできませんし、世俗的な勝利にしか興味はないのかもしれません。しかし、自分が、救い主と同じように狭い戸口を通るように、努力するならば、それを選んで後悔することは無いと思われます。


  最後の審判は、人間の判断を覆すものです。イエス様の時代は、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、社会秩序の中心的な位置を占めていました。しかし、イエス様は、神様の正しい裁きが示された日に、罪人でしかないファリサイ派の人々や律法学者たちの罪を救うことはない とはっきりと示しました。最初のものは最後になるのです。一方、この世の評価の最後は神様の評価の最初です。イエス様の時代のファリサイ派の人々や律法学者たちの認識は、アブラハム、イサク、ヤコブにはなかったでしょう。族長たちは柔和で静かな精神をもち、自分たちを高く評価しようとはしませんでした。ですから、イエス様は、最後の者であった軽蔑された人々が先に神の国に入ると表明していますが、自分を高い者として見せたいファリサイ派は追放されることになるでしょう。


3.エルサレムのために嘆く 

 群衆の中の罪に染まった者は、イエス様がヘロデ・アンティパスの前から逃げだせば良いと考えていました。しかし、彼らがこれを提案するやいなや、イエス様はヘロデについて軽蔑的な言葉で返します。イエス様はヘロデをキツネと呼び、「今日も明日も、同じように過ごす」つまり、逃げ出すことはないことを宣言しました。「そして三日目に私は全てを終える」と これから起こることを予告しました。

 最後に、預言者の殺人者となる、エルサレムに対する彼の嘆きです。イエス様はエルサレムで滅びようとしていました。エルサレムでは国の政策が実行され、多くの預言者がそこで運命の日を迎えました。しかし今日もイエス様のところに、保護すべき人々が集まって、群れに加わりました。イエス様はエルサレムの運命を予見していましたが、それでもエルサレムの保護を願っていましたから、働きをやめなかったのです。それはイエス様のもつ愛の証拠です。ただ単なる人であるならば、このように献身的ではなく、自分を守った事でしょう。

 しかし、エルサレム全体ではイエス様の保護を受け入れませんでした。その代わりに、最後の預言者であるイエス様を、殺害することを決意しました。エルサレムの頑固さは、イエス様を嘆かせるばかりです。

『お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」』  イエス様を信じるまでは、保護されないとのイエス様の最後通告と言えます。