ルカ14:1-35
宴会の譬え
1.安息日に水腫の人を癒す
安息日論争は、すでに二度起こっていました。最初のときは、癒す前にこのように断っています。
『6:9 そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」』
二度目は、会堂長から叱られています。
『13:14 ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」』
この経緯もあって、イエス様は癒しをする前に、律法学者たちとファリサイ派の人々に尋ねます。
「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」
聞かれた方は、黙っています。今までと同じように言い負かされることがわかっていたからです。
「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」 このように言われたら、黙るしかありません。律法も安息日も、人のためにあるのであって、人の命にかかわることを安息日に行うことは禁止されていないのです。
2.客と招待する者への教訓
イエス様は、客が上席を選ぶ様子に気づいて、たとえを話しました。
「結婚式に招かれたら、上席に座らずに、へりくだっていたほうが、上位者が来て席を譲ることもなく、かえって上席を勧められる」
招く方にも、この世の報いを得るのではなく、天の国に宝を積むように教えます。
「食事会を開くなら、お返しをするかも知れないから、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」
3.「大宴会」のたとえ
イエス様はファリサイ派の議員の家で食事をしています。そこで『「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」』との発言です。その趣旨は、「神の国での食事」に与るのは、ファリサイ派の人々だ! との主張です。それに対してイエス様は、「確かにファリサイ派の人々を招いたが誰も来ない」と予告したのでした。そして、実際に食事に与ったのは、招かれていなかった人ばかりです。
4.弟子の条件
イエス様に大勢がついてきました。しかし、家族との縁を切って自分の十字架を背負ってついてこれなければ、弟子とはなりません。持っている物があると、それを失わないために必死に考えて、そして妥協をしてしまうから、自分の十字架を背負うことができないからです。
5.塩気の無くなった塩
自分の十字架を背負えない 家族や財産と縁を切れない者は、塩気の無い塩と同じです。弟子としては、何の役にも立ちません。塩はショッパイから価値があるように、イエス様の弟子は自分の十字架を背負っているから価値があります。