コリントの信徒への手紙一1:18-31

十字架へのこだわり


 コリントでは、いろいろな学者が互いに論争に明け暮れていて、コリントの教会でも、派閥をつくって論争に明け暮れていました。パウロはこの世的な学問が教会に必要でなく、邪魔であり、排除すべきであることをこの部分で説明しています。

1.十字架へのこだわり

 パウロは十字架の言葉にこだわりました。十字架の言葉とは、「イエス・キリストはあなたの罪のために十字架にかけられて死に、三日目によみがえられました。このイエス・キリストを信じればあなたの罪は赦され、永遠の命を得ることができる」という福音のメッセージです。

ある者は十字架の言葉を馬鹿にします。滅んでいく者というのは、知恵のある者、賢い者です。彼らはこの世的な観点から見れば最高レベルの学問をおさめています。その知識のはかりにかけて、十字架の言葉を愚かなものとみなしてあざ笑うでしょう。

イザヤ『29:14 それゆえ、見よ、わたしは再び/驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び/聡明な者の分別は隠される。」』


 賢い者が十字架の言葉に対して鼻で笑い、一蹴したとしたら、どうでしょうか?クリスチャンでない人がそういう人の意見を聞くと、鵜のみするかもしれませんね。そこには、二つの点で間違っていると言えます。

 神様を知らないでの否定。自分が知らないものについて、否定しているに過ぎません。人間がこの世的な知恵で神様を知ることは不可能です。神様は使徒や預言者たちを通して、み言葉で御自分を啓示してくださいました。その最高の啓示がイエス・キリストなのです。十字架の言葉はその最高の啓示です。この世の知恵では神様を知ることができません。しかし、私たち救われた者は子供であっても神様を知っています。

 第二に、神様の力を知らないがゆえの判断。十字架の言葉は、私たち救われる者にとっては神様の力です。つまり、十字架の言葉は単に「信じれば罪から救われる」という言葉そのものの意味ではなく、神様の力がそこに伴います。神様の力によって変えられた人生が、クリスチャンの数だけあります。十字架の言葉にある力の証拠と言えます。だから、クリスチャンの証しは強力なのです。神様を知っていて、神様の力も知っている私たちは、この世の知識人を自称する人たちの嘲りの言葉を聞いても、十字架の言葉にこだわる必要があります。

 宣教は、神様ではなく人が伝えるという点で愚かであります。また、「十字架の言葉」も一般受けしそうにないものです。十字架につけられたキリストは受け入れがたいものでした。ユダヤ人が待望するメシアは、奇跡の力によってローマ帝国を倒してユダヤ人国家を再建する人でした。ところが、クリスチャンは「十字架にかけられた男がメシアだ」という。それはユダヤ人のメシアのイメージとはかけ離れていたのです。律法には「木にかけられた者は呪われている」と書かれています。呪われた十字架にかけられて死んだ男、最もみじめな敗北者とみなすべき男がメシアなはずがありません。それでユダヤ人は信仰を持つことができなかったのです。もう一方はギリシア人。ギリシア人は知恵を求めます。彼らは、十字架につけられたキリストの宣教を愚かなものとみなしました。

2.パウロの指摘

 パウロはコリントの教会の誤りを指摘します。知恵がある、力があると自称する者に恥をかかせるために、あえて神様は無に等しいものを選ばれました。その理由は、人が天地万物をお造りになった神様の前で自分の知恵や力を誇ることは愚かだからであります。ましてや、神様が人をクリスチャンとして召し出すのは、全てが神様の恵みによるもので、人間の功績ではないからです。しかし、人間はすぐ自分の手柄にしようとします。神様の栄光を盗もうとするのです。もし、神様が知恵ある人を召したら、その人は自分を誇るでしょう。「私は知恵があるから神様に召されたのだ。すごいだろう」と・・・しかし、神様が当時の社会の最下層にあたる漁師や徴税人や奴隷や女性などを召し出したらどうでしょうか?彼らは、「無に等しい私が召されたのは神の豊かな恵みによるものです」と神様をほめたたえるでしょう。

 ところが、コリントの信徒たちは、自らを誇ろうとしました。そこで、パウロは、「彼らが救われたのは、彼らの力によるのではなく、全部イエス・キリストを通して神様から与えられたものによるのだ」と言い聞かせました。人がキリストを信じるとき、そのキリストの義が与えられます。次に聖。心にキリストが形作られていくことです。聖霊によって、キリストに似た者に変えられていきます。最後に贖い。朽ちてしまう体が永遠の命を持つ者に変えられます。十字架の贖いによって私たちの罪が赦され、救いの御業が成就するのです。

 これらのことから、私たちは正しい態度をとることができます。『「誇る者は主を誇れ」』

エレミヤ『9:22 主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。9:23 むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい/目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事/その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。』

 すべては主から与えられたのだから主を誇るのが正しいです。「神様を知ること」を誇る。ただ主イエス・キリストの十字架の出来事だけを、誇る。そのようにしてきたパウロは、神様の存在と、神様の力を信じて、ただ十字架の言葉を宣べ伝える伝道者でありました。