コリントの信徒への手紙一11:17-34

主の晩餐式の問題


1.主の晩餐の問題

 この手紙の初めの所で、パウロにつく、アポロにつく、ペトロにつく、キリストにつく、と少なくともコリントには4つのグループがあったことが明らかです。当時のコリントの教会は、有力者の個人宅を開放するなどして、礼拝を守りました。せっかく一堂に集まっても、この4つのグループが仲たがいしていたのでは、礼拝への一体感はあったのでしょうか? また、このパウロの手紙によると、主の晩餐式ではなく、ただの宴会のように書かれています。そもそも、主の晩餐式とは何であったかと言うと、ユダヤの過ぎ越しの祭りです。そして、イエス様は新しい契約の証として、執り行うように命令していました。そして、一つのパンを皆で食べることによって、クリスチャンはイエス様を介して繋がり合うのです。

 主の晩餐は、礼拝の後に行うパン裂きでありました。また、実態として食事をしたようです。その食事は、貧しい者への施しや、共同生活者の食事でもあったようです。ですから、本来的には、それぞれが持ち寄った物を皆で分かち合って食べるべきであります。そして、最もその食事が必要な者とは、遅れてくる人たちです。なぜなら、安息日にもかかわらず仕事をしなければならない貧しい人たちだからです。ということは、食事を持ってきた人たちは、それに手を付けずに、遅れてくる人たちを待っていなければなりません。しかし、食事を持ってきた人たちは自分たちでさっさと飲み食いをしてしまっていました。

2.主の晩餐の制定

 この箇所は、主の晩餐式で、「制定文」として用いられています。

パウロは、主がどのように主の晩餐を設定したかを、コリントの信徒たちに思い起こさせます。彼らを正しく指導しなければなりません。それで、最初の主の聖餐式に遡る伝承を取り上げます。この箇所は、新約聖書の中で主の晩餐式の制定に関する最古のものです。

 主の晩餐式でとり分けられるパンは、私たちのために与えられたキリストのからだです。ぶどう酒はキリストの血による新しい契約です。キリストを覚える主の晩餐式は、イエス様を信じて信仰を告白し、バプテスマを受けた者が、あずかります。主の晩餐式にあずかることによって主の死を宣べ伝える、という意味をもっています。キリストの再臨の時まで、主の聖餐はこのようにずっと続けるのです。

 パンを裂いて祝福することは、ユダヤ人の食事の慣習に関連しています。家の主人が食卓からパンを取り、食卓に着く者の目の前で上へと持ち上げて、食事を始めます。パンを高く持ち上げたまま、主人は神様を次のように賛美します、「私たちの主なる神様、世界の王様、地がパンを産するようにしてくださるあなたが、ほめたたえられますように!」。この言葉に来客は「ア-メン」と唱和します。この後、主人は食卓についている人数に合わせてパンを裂き、それを配ります。それで、食事を初めます。主が主の晩餐式を制定したときにも、食事の後にぶどう酒の入った杯とそれに関するイエス様の御言葉が続きました。

3.主の晩餐に与るには

 コリントの信徒たちが主の晩餐式を不適切に運用しているため、主の聖餐の本質を彼らがよく理解できるよう、パウロはお勧めをします。彼の言葉は真剣な警告です。イエス様が制定し、イエス様が招いている主の晩餐にふさわしくない態度は、十字架の死に対して罪を犯すことを意味します。それゆえ、クリスチャンは主の晩餐式が礼典であることを心にとめなければなりません。「主のからだを 頂くことをわきまえないで」主の晩餐式で食べ飲む者は、それによって裁きを招くことになります。

 この御言葉は、誤解を生みやすいので、断っておかなければなりません。「わきまえる」とは、日本語では、善悪を判断し区別をする能力を指してしまいます。つまり、未熟ではないことを自己評価できており、それが誰から見てもそのように見えると言ったニュアンスです。しかし、ギリシャ語はディアクリノー(διακρίνω)「区別する」と言う意味だけです。また、「自分を良く確かめたうえで」とのパウロの言葉ですが、そう教えるしかないですね。しかし、自分がふさわしいかどうか確かめた人は、すべて「ふさわしくない」結果となったでしょう。それでも、イエス様は私を主の晩餐に招いていることを感謝して、パンと杯を受けとるのです。

 ここでの「区別する」とは二通りの意味にとることができます。まず、「主のからだを他の食べ物と明確に区別しなければならない」、ということ。もう一つは、「主のからだ、すなわち主の教会の交わりを他の交わりとは区別をする」、という意味です。これは、「主のからだ、すなわち主の教会はイエス・キリストを頭としてひとつである」、と指摘しているわけです。この「からだ」(教会)では皆が平等で一つなので、コリントの教会で起きてしまったような分断はあってはならない、というわけです。

 コリントの信徒たちが病気になったり死んだりしたケースについては、少し脅しめいています。それは主の裁きですが、この目的は、コリントの教会を壊すことではありません。教会を霊的な面で立ち直させることでした。