コロサイ1:24-2:5

今や、明らかにされた!

 パウロは、コロサイ(Colosse)に行ったことがありません。この手紙は、コロサイの教会からの問い合わせに、パウロが答えたものです。パウロは、この手紙の中で、ラオディキア(Laodicea)とヒエラポリス(Hierapolis)の教会も心配しているようです。地図の通り、隣接した地域ですので、それぞれ影響しあっているものと思われます。パウロは、この書簡を獄中で書いていますが、3つ説があって、その書いた場所が、ローマ、エフェソ、カイザリアです。聖書には、エフェソでパウロが投獄されていたとの記事はありませんが、第三次伝道旅行の時に、エフェソに長期滞在をしていること、そしてコリントに行く、行くと手紙を書きながら、なかなかコリントには行けなかったことから、エフェソで投獄されていたとの説も有力です。コロサイの信徒への手紙とフィレモンの手紙が、同時期に書かれていますが、エフェソとコロサイ間のやり取りであれば自然であるという事も説明として付け加えられます。パウロのところに身を寄せたフィレモンの奴隷オネシモをパウロは重宝していましたが、コロサイとローマの間で奴隷が一人で脱走すると言うのは考えにくいからです。

 コロサイの問題は、キリスト教でない思想が入り込んできたことでした。パウロは、その問題に対してこの手紙でアドバイスしています。そして、その前提としてパウロは、権威はキリストに在って、キリストに仕えていきたいという事を説明するのです。それこそが、パウロの与えられた勤めなのです。

1.明らかにされたパウロの勤め

 パウロは、仲裁人ではありません。しかし、コロサイの教会から意見を求められています。そこで、パウロは、「自分自身の使命(mission)は、神のみ言葉を余すことなく人々に伝える」ことであることを、明言します。そして、教会に仕えているのは、その務めを果たすための手段だったことを説明します。ですから、コロサイで起きているもめごとの仲裁という視点からこの問題を考えることはしないとの宣言であります。

 なぜなら、創世記のころから秘められていた計画である救いが、今明らかになったからです。神様は、異邦人をも救われるのです。異邦人も神様の栄光にあずかることが出来ることを、神様は全世界に知らせようとしています。その計画とは、イエス様による栄光と希望なのです。

 このイエス・キリストを伝道するものは皆、すべての人がイエス様を信じて罪が赦されるように、知恵を尽くして人々に伝えようとしています。パウロ自身も、この伝道の業のために苦労を重ね、そしてイエス様の力を借りて闘っているのです。  

 ここまで、明確にみ言葉に取り組んで、格闘しているさなかのパウロです。決してなめらかな弁舌とはいえないパウロは、このようにして、自身の最も大事に取り組んでいることを中心にして、アドバイスをしようと考えたものと思われます。つまり、イエス様の教えであるかどうか?そして、旧約聖書で預言されてきたことかどうか?に軸足を置くことを宣言していたのです。ここに軸足を置くと、人の作った教えや、信仰とは直接関係のない習慣に流されにくくなり、また、信仰者同士が愛し合うことを目指すと思われるからです。

2.パウロのアドバイス 

 パウロは、コロサイとラオディキアの教会から、たびたび手紙をもらっていたようです。パウロは、第3回伝道旅行のときに、この地域を通り過ぎただけでした。コロサイを伝道したのは、エパフラス(1:7)です。伝承によると、エパフラスは、コロサイ出身でパウロを助けて働いた人です。パウロの指導のもとで、町々に伝道して、コロサイ、ヒエラポリス、ラオデキヤの教会を建設したということです。そういう経緯から、この3つの教会は、同じような問題を抱えていたものと思われます。

 パウロは、手紙にも書いた通りに、会ったこともないこれらの教会の人々と、イエス様の教えについて議論を闘わせていたのでしょう。かなり、パウロを困らせていたと読めます。その原因は、議論は優れているように聞こえるものの、その心はというと「愛」が感じられなかった事だと考えられます。イエス様は第二の掟で「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」と教えました。しかし、自分の覇権や権威のために議論している人々には、その愛は見せかけなのです。そう言った議論を吹きかける人々をもパウロは愛して、諭し、イエス様の愛の中で知恵を受け取れるようになってもらわなければなりません。すべての人を愛することが出来るように努力することで、そこにはイエス様の知恵と秩序が支配し始めるのです。そして、異邦人を愛することもイエス様のご命令なのです。イエス様への信仰だけを議論するのであるならば、イエス様による秩序はそこにやってくるはずです。