マタイ6:1-8

施しをするときには

見てもらおうと人の前で、善行をする → 善行を見た人等から褒められる(すでに報いを受けてしまっている) 

 「見てもらいたい善行」とは、何なのでしょうか? 善行が目的ではなくて、「自分を良く見てもらう」ことが目先の目的な様に感じます。目先の目的と言うのは、最終目標ではないという事です。最終目標は、「尊敬を集めたい」とか、「評判をもとに地位を獲得する」ことなのでしょう。これは、自分に無いものを、手に入れる努力ではありますが、なにか心躍るような努力には見えません。

 また、残念ながらイエス様も「すでに報いを受けている」と言われます。たしかに、目的は達成されたのです。見てもらったのですから、極端に言えば、その善行が有効なものであっても、そうでなくても一緒なのです。その善行には内容をよくすることや、受ける側の気持ちを考える必要はないのです。だから、その善行が良い連鎖を生むことは難しいでしょう。  

見られないように隠れて、善行をする → 知られていない(報いは天の父が、天の父は見ておられる)

 「隠れてする善行」とはなになのでしょうか? 見られることが目的ではなくて、善行が目先の目的な様に感じます。目先の目的と言うのは、最終目標ではないという事です。最終目標は、「神様の御用をしたい」とか、「人の役に立ちたい」ことなのでしょう。これは、自分に有るものを、差し出す善行でありますから、だれかに見てもらわなくてもできることです。

 しかし、イエス様は「天の父は見ておられる」と言われます。たしかに、目的は達成されたのです。善行をしたのですから。しかし、その結果が有効なものでなければ満足はできません。ですから、受ける側の評価を知って、有効でなければ、やり方を良くする必要があるのです。すると、その善行が良い連鎖を生んでいくことでしょう。そういう意味で、天の父が報いてくださるのです。