2021年 12月26日 主日礼拝
『はるばる礼拝に』
聖書 マタイ2:1-16
先週は、クリスマス礼拝を守りました。また,イブ礼拝では、ろうそくのもとで、キャンドルサービスも守りました。感謝です。今日の聖書の箇所は、イエス様がお生まれになったことを聞きつけた東方の学者たちについて、お話です。
ミカ書にこのような預言があります。
ミカ『5:1 エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。』
この預言は、今日の聖書の箇所にも引用されていますように、ベツレヘムに救い主が生まれるという根拠であります。そして、ベツレヘムはダビデの生まれた町でもあります。
先週、ダビデの末に救い主がうまれるとの預言(イザヤ11:1-2イザヤ『11:1 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち11:2 その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。』)があったことをお話ししました。そして、生まれる場所は、ベツレヘムとされていました。ですから、ベツレヘムでダビデの子孫として生まれるということは、救い主であることの「しるし」の一つとなります。また、しばらくして占星術の学者たちがエルサレムにやってきました。占星術と言いますと、厳めしい感じがしますが、優しい言葉で言うと星占いですね。星占いは、ペルシャのスサの街を中心に広まったゾロアスター教の文化で、天文学と一緒に発展しました。ユダヤでは、星占いが盛んだったわけではないのに、その東方の占星術の学者たちがはるばるとエルサレムにお生まれになったイエス様を礼拝しに来たのです。そして、ヘロデ大王に謁見してこのように言います。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
ヘロデ大王は、ユダ、サマリヤ、ガラリアを治めるユダヤの王様ですから、東方の占星術の学者たちは、当然のようにヘロデ大王のところに来たわけです。そして、ヘロデ大王に会えているので、ローマ(のシリア総督BC1世紀にはセレウコス朝シリアがローマに敗れている)と近い関係にあった学者たちだと思われます。
学者たちは、占星術によってユダヤ人の王が生まれたことを知って、ヘロデ大王のところに来ているのですが、ヘロデ大王にしてみたら、身に覚えがありません。ヘロデ大王もエルサレムの人々も大変困惑しました。
特にヘロデ大王には、困った問題だったのです。なぜなら、この国ではヘロデ大王の跡継ぎ問題が長く続いていたからです。ヘロデ大王は、大変疑い深くて、自分の息子たちも信用していませんでした。世継ぎを決めてローマに報告するのですが、その世継ぎに王座を奪われるのではないかとの恐れから、世継ぎを決めては、裏切りの疑いをかけて殺し、そしてまた世継ぎを決めて、・・と何度も何度も肉親を殺していました。そこに、ユダヤの王が生まれたとなると、ヘロデ大王はさらにさらに不安が募ってしまいます。学者たちが帰ったあと、早速、祭司長たちや律法学者を集めて、ユダヤの王は、どこに生まれるのか?を聞きます。
ヘロデ大王は、ユダヤ人の王とは何か? とは聞いていませんので、「救い主がダビデの家に生まれる」ことは、知っていたようです。そもそも、ヘロデ大王は、ダビデの家の出ではありません。そればかりか、ユダに併合されたイドマヤの出身でした。また、ヘロデ王朝は正当な王家ではなく、ローマの力を借りて国を乗っ取っているわけです。そして、国民にかけた税金でローマに媚を売り、国中の町をローマ化したわけですから、尊敬されるわけがありません。そういう意味から、いつ国王の座を追われるか、心配の種が多かったのが実態です。ですから、ヘロデ大王がユダヤ人の王が生まれる場所を聞くということは、そこに兵隊を送る目的であったと言えます。
ヘロデ大王は、ベツレヘムに生まれることを知ると、ひそかに占星術の学者たちを呼び寄せて、今度はいつその星を見たのかを確認します。これは、何歳から何歳までの男の子を探せばよいのかの確認だったのだと思われます。そのために、学者たちに秘かに会ったのです。これは、誰にも聞かれたくないことがあるということです。学者たちに秘かにその子を探させようとしていること、そして、ヘロデ大王自身も行って拝むといったこと、どちらも知られたくないのでしょう。ヘロデ大王のことを良く知っている人々にとっては、この言葉は、その子の死を意味しています。そんな話が伝わったら、ヨセフの家族は、ベツレヘムから逃げ出すに違いありません。そうなる前に、こっそりと誰にも気づかれないように学者たちをベツレヘムへ送り出したのでした。
学者たちがベツレヘムに向かうと
『東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。』
と書かれています。歴史上の記録でも紀元前7年に土星(ユダヤ人の星)と木星(王の星)が接近して異常な輝きを示したとされております。これこそが、ユダヤに王が生まれたとの告知であると信じて、占星術の学者たちがユダヤに来たと考えても不自然ではありません。ですから福音書の記者は、「星が占星術の学者たちを導いた」と書いたのでしょう。
ところでベツレヘムは、小さな町ですので、赤ん坊を探すのに多くの苦労はいらないはずです。星が導かなくても、その子を探しだすのは、時間の問題でした。そして幼子イエス様を見つけると、学者たちはイエス様を礼拝して、黄金、没薬、乳香を贈り物として捧げます。黄金は、お金になりますし、乳香とは漢方薬の一つで、礼拝の時に焚く香です。意外なのは没薬で、葬りの時に腐敗防止の目的で使うマイラという薬草です。生まれたばかりの赤ん坊に、この没薬をささげるということは、普通しないことです。ですから、この物語は「イエス様は生まれた時から、十字架の死を背負っておられた」ことを象徴していると言われています。
『2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。』
占星術の学者たちは、ヘロデ大王の指示を無視して、エルサレムには戻りませんでした。ですから、ヨセフ一家がエジプトに逃れた後に、ヘロデ大王はだまされたことに気が付きます。すると、ヘロデ大王は、ベツレヘムの2歳以下の男の子を皆殺しにします。(2:13-15)
しかし、もともと学者たちをだましたのはヘロデ大王のほうです。「わたしも行って拝もう」とヘロデ大王は学者たちに話しました。しかし、ヘロデ大王はそんな気などなく、最初から殺すつもりだったのです。この学者たちの命も心配ですが、夢でエルサレムの戻らないようにお告げがあったのです。学者たちは、エルサレムには向かわずに、別の道を使ってシリアに帰ります。ヘロデ大王の領地を抜けてしまえば、そこはローマのシリア総督の支配下だからです。こうして、神様の導きによって、だれもヘロデ大王の手にかからずに済みました。
今日の、聖書の箇所は、大変不可解な物語です。ユダヤの王である救い主が生まれたのに、最初に礼拝をしに来たのは、羊飼いを除くと外国の人でした。ユダヤの人々はイエス様を礼拝に来ようとしなかったのです。
そして、ユダヤの人々(すくなくともヘロデ大王の周辺の人々、祭司長たち、そして律法学者)は、救い主を探そうとしませんでした。探そうとしたのは、ヘロデ大王だけです。もちろん、それは礼拝するためにではないので、救い主を歓迎したわけではありません。このように、ユダヤの救い主はユダヤの人々に歓迎されていなかったということです。なにしろ祭司長たちや律法学者たちは、ヘロデ大王がいてこそ、その地位がありましたから、ヘロデ王朝を脅かすようなユダヤの王がいらなかったのだと思われます。
一方で、占星術の学者たちは、ユダヤの神様のことを書いた聖書を読み込み、そして、自らの得意とする占星術と組み合わせた結果、ユダヤの王の誕生を知ったのです。ところで、なぜ、異国の宗教のことを深く調べたのでしょう。多分、学者たちはユダヤの王が生まれることを知って、信じたのです。信じたからこそ、そのしるしが現れるはずだと研究を続けたのだと思われます。一方で、祭司長たちや律法学者たちは聖書の預言を説明することはあっても、それが何時なのか、そしてどんな「しるし」があるのかについて、興味を持ちませんでした。実際に占星術の学者たちが「ユダヤの王」が生まれたと知って、ヘロデ大王のところにやって来ていても、彼らは何もしなかったくらいです。やはり、「救い主がやってくる」という預言を本当の意味では信じていないのでしょう。それと比べると、占星術の学者たちは、すぐに会いたくて、そして礼拝したくて、はるばるスサの街あたりからベツレヘムという、長旅にでたのです。遠くからその思いをもって礼拝することも可能です。しかし、この学者たちは、会って礼拝することに意義を感じていました。イエス様を、救い主が来られることを、そしてその働きを信じていたからです。
この祭司長たちや律法学者の姿は、現代の私たちの信仰に対しての警鐘であります。私たちも、信仰を基にした行動よりも、自分の都合を優先してしまう時がままあります。今、コロナ過で、多くの教会で礼拝を守ることができなくなったり、教会学校を維持できなくなったりしています。本来、信仰生活には礼拝・教会学校は大事なものですが、いつの間にか神様への畏れよりも「人と人の関係が壊れるこわさ」や「誹謗中傷のこわさ」が強く上回ってきます。「まだ教会に行っているの?」とか「ウィルスをもらってこないでくれ」と、近い人から言われると、教会には行きづらくなりますし、ましてやクラスターを起こしては、大変な非難を受けそうです。結果として、対面の行事をなくしてしまう教会もあれば、人数を絞って安全な集会をする工夫や、ZOOMを使った礼拝へも多く見うけられました。一方で、コロナ過のなかでも以前と変わらない活動を選んだ教会もありました。私たちはどうしているかと言うと、行政側の要請にあわせて、感染のリスクを減らすことと、対面の礼拝を継続したいとの思いをもって判断してきました。しかし、賢いようには見えますが、教会とは何であるかを考えると、私たちの選びは的を射ていないのかもしれません。教会の本質は、イエス様を信じる人と人の交わりです。その本質が希薄になってしまうならば、教会は大丈夫なのでしょうか?心配です。だからと言って、教会でクラスターを起こすような無謀な事は、避けなければなりません。結論はどうであれ、私たちはこの点をしっかり考えていく必要があります。
異国の占星術の学者たちは、イエス様を礼拝するために、わざわざ遠くから出てくるという 信仰を行動で示しました。それは、信仰のしるしです。私たちも、信仰のしるしとして、対面の礼拝、対面の教会学校、そしてバプテスマ、主の晩餐の礼典を固く、そして安全に守ってまいりましょう。その知恵は、イエス様から頂きましょう。私たちはイエス様を信じているので、イエス様はその力を私たちに与えてくださいます。