2025年 1月 19日 主日礼拝
「僕は聞いております」
聖書 サムエル記3:1-10
今日は、サムエル記からです。この記事は、預言者サムエルが書いたとされています。サムエルは、サウル王やダビデ王に油を注いだ預言者なので、紀元前11世紀ごろに生まれたと思われます。両親はエフライムの嗣業の地に住んでいました。今日の週報に地図を入れておきましたので、見てください。エフライム、シロ、ベテルがエフライムの嗣業の地にある町です。北にあるシェケムの町がマナセの嗣業、エリコとエルサレムがベニヤミンの嗣業、ベツレヘムがユダの嗣業、そしてヤッファがダンの嗣業です。これらの町は旧約聖書に出てくる、イスラエルの歴史を刻んだ場所です。サムエルの両親が住んでいたのは、エフライムの山中です。そこから、毎年シロの神殿に行き、犠牲をささげて礼拝を守っていました。シロの町に神殿が建てられたのは、ヨシュアがこのカナンの地に入ってきたときです。(ヨシュア『18:1 イスラエルの人々の共同体全体はシロに集まり、臨在の幕屋を立てた。~』)それ以来、シロの町にある神殿がイスラエルの政治と宗教の中心となっていました。と言うことで、当時シロの神殿にいた祭司エリが、士師として、イスラエルを治めていたのです。士師とは、判断を下す人のことです。今日の聖書で出てくる祭司エリは、士師の一人で、ペリシテ人との戦をも指揮していたようです。このとき、エリは、戦いを鼓舞するために主の箱を持っていかせました。結局、イスラエルはこの戦に敗れただけではなく、神の箱までもペリシテに奪われるという失態を招きます。
神の箱と言うのは、モーセがホレブ山で神様から授かった十戒のことです。十戒を刻んだ二枚の石の板を箱に納めていました。(王上8:9、代下5:11)日本で言えば神輿のようなものです。つまり、神の箱とはイスラエルの神様のことであり、それをペリシテが奪ったということになります。サムエルはこのエリの失態の後に、イスラエルの士師を継ぎました。そして、サムエルはサウル王、そしてダビデ王に油を注いで王様とし、政治的な指導者の立場から降りたのです。それで、サムエルは最後の士師となったわけです。
『3:1 少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。3:2 ある日、エリは自分の部屋で床に就いていた。彼は目がかすんできて、見えなくなっていた。3:3 まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。』
このころサムエルは12歳くらいではなかったかと言われています。サムエルは、乳離れするとここに連れてこられ、主に委ねられました。(サムエル上1:28)つまり、神様に捧げられたサムエルは、祭司エリが育てたのです。そして、神様は、いよいよサムエルへの代替わりを決断します。すると、イスラエルの民に対して神様の言葉が臨むことも、幻が示されることも少なくなりました。それは、神様の御心は、祭司エリから離れたことを示します。その原因の一つが、祭司エリの二人の息子たちです。祭司であるのに神殿の中で献げ物を搾取していることです。(サムエル上2:12-36)
ある日のことです。サムエルは、まだ祭司でもありませんが、神殿で最も神聖な神の箱のある場所で寝ていました。この時はまだ、神殿の至聖所に神の箱があったのです。祭司エリも、祭司であるエリの二人の息子も、そこにはいませんでした。この当時は、上級の祭司が、神殿で神の箱と共に休むことになっています。その大切な仕事を、祭司ではない見倣いのようなサムエルに任せて、彼らは自分の部屋で休んでいたのです。
彼らのこういった姿勢もあったのでしょう。結果として、神様はイスラエルの民に対して沈黙しました。この神様の沈黙は、避けなければなりません。祭司の務めは、神様が沈黙しないように、絶えず神様の前に香をたき祈りと賛美感謝を捧げることだからです。(詩編83:2、イザヤ58:1~2)それなのに祭司エリの一族は、神様を沈黙させたのです。神様は祭司エリの一族に、もう期待していなかったのかも知れません。
それでも、神様は、この神殿に仕える一人の少年に目を止めたので、沈黙は破られました。この時の少年サムエルの仕事は、神殿で寝起きして、夜の間、七つの燭台の灯りを灯し続けることでした。夕方から灯りをつけて、明け方にはそのともし火を消すまでが仕事です。本来その仕事を担っている祭司一族のだれもが、この毎日の仕事をせずに、自分の部屋で寝ていました。そんな状況でしたが、12歳の少年は日々神様に仕えていたのです。
そしてとうとう、神様の方から、サムエルに声がかかります。
『3:4 主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と答えて、3:5 エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました」と言った。しかし、エリが、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言ったので、サムエルは戻って寝た。』
神様が、サムエルを呼んだのですが、サムエルはエリが呼んでいると思って祭司のところに行きました。するとエリは、「わたしは呼んでいない」というのです。こういうことが三回もあったので、エリもようやくそれは神様が呼んだのだと理解します。そして、もし今度四回目に呼ばれたら、「主よ、お話し下さい。僕は聞いております。」と言いなさいと教えました。
神様は、この幼い少年サムエルを再び呼びます。結果として、四回目です。そして、最後にようやく、サムエルは神様の告げる言葉を聞くことができました。祭司エリから、神様への答え方を教わっていたので、「主よ、お話し下さい。僕は聞いております。」と答えます。
サムエルは、三回、神様の語りかけを聞き逃しました。神様が、サムエルを呼んだのにです。サムエルは、神様の声だとはわからなかったのです。私たちも、同じことをしていると思います。神様は私たちに呼びかけているのに、私たちはその声に気づいているものの、神様の呼びかけだとは思ってもいないからです。実は、神様は祈りに・・必ず答えてくださっているのです。しかし、私たちは「神様は何も語ってくださらない」などど、つぶやいてしまっていないでしょうか?「主よ、お話し下さい。僕は聞いております。」この言葉で祈り求めるならば、神様は沈黙しません。神様は、そういうお方なのです。
それでも、もし、どうしても語ってくれない、声が聞こえないと思うのでしたら、それは厳しい事態を招いているかもしれません。自分の思いや言動で神様が沈黙しているのではないでしょうか?。例えば、祭司エリの息子たちは、神様にこんなことまで言われるほど、神様を軽く扱いました。
サムエル上『2:29 あなたはなぜ、わたしが命じたいけにえと献げ物をわたしの住む所でないがしろにするのか。なぜ、自分の息子をわたしよりも大事にして、わたしの民イスラエルが供えるすべての献げ物の中から最上のものを取って、自分たちの私腹を肥やすのか。』
あきらかに、神様と祭司たちの関係が悪くなっています。彼らは、神様の声を聞こうとしてはいないようです。神様と自分をつなぐ大事なパイプが、細くなり、そして詰まってしまっていて、神様の声は聞こえないのです。ですからそのパイプは、手入れをする必要があります。それは、神様の前に祈り、そして神様の声を聞こうとすることです。
また、サムエルのように、神様の声を聞いて目を覚ましても、それを人の声だと勘違いしてしまうことは、あり得ます。サムエルは、まだ神様の声を聞く訓練を受けていませんでした。ですから、三回も勘違いして祭司エリのところに行ったのです。しかし、神様は 呼び続けてくださいます。そして決して、寝ているときだけ声をかけるのではありません。起きているときも、誰かの口を通して、神様は声をかけるのです。また時として、それは声ではなく、御心として伝わるのです。
祭司エリは、神様の声 の聴き方を教えました。
『3:9 ~「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。』
神様の声を聴くためには、まず、「主よ、あなたがお話し下さい。そして、わたしが聴きます。」と祈ることに始まります。それなのに、・・・私たちは、「神様このお願いを聞いてください。」と祈っていることが多いのではないでしょうか?。決してそれが悪いと言うことはないのですが、お祈りは、神様とのおしゃべりだと思ってください。一方的に、聞くだけだったり、一方的にお願いするだけだったりしても、おしゃべりになりません。そもそも、神様に願い事を熱心に聞いてもらう というのが目的になっている祈りなら、おしゃべりではなくなっています。聖書に書かれている祈りは、順番が違うのです。まず最初に、神様が語ります。そして私は聞きます。これが神様の言葉を聞く手順です。「こちらからのお願い」は、神様の言葉を聞いた あとで良いのです。ですから、なかなか祈りが聞かれないと、あきらめないで、ちょっと立ち止まってみませんか?祈ることに熱心すぎて、神様の声に聴くことを忘れていないかをです。ところでですが、皆さんはどうやって神様の言葉を聴いているのか確認してください。 いろいろな答えがあると思います。その答えの一つは、聖書を読んでいることです。聖書は神様の言葉ですから、聖書を読むことは神様に聴くことになります。だから、心を静めて聖書を読んで、神様の声を受け止めてください。まず、「神様、お話し下さい。」と祈って聖書を読む、そして、心を静めて周りの人々の言葉からも、神様の声を聴きわける。それが、神様の声を聴く方法なのです。
そして、あきらめないでください。神様の声になかなか気が付かない時もあるかもしれません。それでも、毎週礼拝を守り、そして教会で奉仕をして、日々神様の声を求めていく。その教会生活の中で、必ず神様は私たちに呼びかけてくださいます。神様は、決して沈黙する方ではありません。わたしたちが目を覚まして、「主よ、お語り下さい。僕は聞きます。」と応答するまで、神様は何度も呼びかけています。この、いつでも声をかけてくださる神様に感謝いたしましょう。