1.祈るときには
ここには、当時の偽善の祈りの場所として「会堂」と「大通り」が挙げられています。イエス様は、会堂大通りといった目立つ場所で祈ることを戒めているわけではありません。「人に見られたくて祈る」ことを戒めているのです。律法学者やファリサイ派の人たちの一部は、人の集まる場所を好み、敬虔に見られたいがために、祈りのことばをただ口にしていました。また律法学者たちは人前では長く祈るクセがあったと言います。長く祈ること自体も、やはり問題ではありません。
さて、律法学者やファリサイ派の人たちは、大勢の人に見られる場所で祈ることが好きなのに対し、イエス様の勧めは、「奥まった自分の部屋」で祈ることです。一人になって静まれるスペース、そこは人から隠れた所です。また、イエス様は、異邦人の祈りをまねないようにも警告をしています。異教徒は、ご利益信仰だから、神々の名前を挙げ、自分の願い事がかなえられれば、礼拝する対象は何でもいいというところがあります。だから、イエス様は教えます。「父なる神さまは私たちの真の必要を知っているのだから、彼ら異邦人の祈りのまねをするな」と。
2.主の祈り
『6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。』
イエス様は神様を「父」と呼びます。愛情をもって そして同時に「父」には威厳、尊敬、畏敬という意味も込められています。律法学者やファリサイ派の人たちたちのように、自己の栄誉を賛美するのではなく、神様があがめられることを願っています。私たちは神様の栄光のために造られた存在であることを忘れてはなりません。
「御国」とは「神の国」のことで、イエス様は神様の支配を願う祈りを教えます。神の国はいまだ完成していません。神の国の完成の時、神様の義が実現し、神様の栄光が輝くことになるよう祈るのです。神様のみこころは天では完全に行われていますが、この地上は悪と不義がはびこっています。神様はすべての人が真理を信じて救われることを望んでいます。だから、救いのために祈るし、自分が神様のみこころを行うことができるようにと祈ります。
『6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。』
私たちは神様の御国を求め、そして次に生活の必要を求めます。神様は私たちを養ってくださるからです。私たちは神様の恵みで生かされていることを、覚えて祈るのです。
『6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。』
イエス様は、罪を「負い目」、すなわち神様に対する負債だと言っています。罪は神様に対するものだからです。私たちの神様に対する負債は莫大で、返済不可能です。だから、その負債は赦していただくほかはありません。神様はキリストに私たちのすべての罪の負債を負わせました。それが十字架です。イエス様はご自身のいのちを代価として十字架上で捧げ、私たちの罪の負債を支払ってくださいました。
『6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』
悪魔は私たちが罪を犯し、不信仰になるようにと、誘惑してきます。私たちは日々、自分の弱さを自覚して、このように祈らなければなりません。主語は、わたしではなく「わたしたち」です。主の祈りは、自分のことだけを祈る祈りではなく、信仰者の仲間や家族といった共同体のために祈る祈りなのです。
この主の祈りは、礼拝の時だけの祈りではなく、日々祈るものです。初代教会の信徒たちもそうしていたようです。祈り方としては、朝、一日のはじまりに、祈りと聖書の時を持つのが良いです。また、聖書を読むわけですから、みことばそのものに関して祈る、それも必要なことです。
日中も神様に心を向け、短い祈りでも捧げる習慣を持つ。そして一日の終わりには、就寝前に祈りの時を持ちたいものです。心を静めて一日を振り返り、感謝だったことは何かと思い浮かべる。そして感謝する。こんな出来事があって、こんな恵みをいただいて感謝であったのかもしれません。どんな一日にも感謝できることはあるはずです。希望をもって明日を迎えることができるように。感謝、悔い改め、希望。こうした祈りを毎晩持ちたいですね。これも「奥まった自分の部屋」での祈りということです。