ティルスとは、Tyreの町です。海洋民族であるフェニキアの象徴ともいえる港町です。今日の聖書のときには、イエス様はフェニキアのティルスにいました。そこから北上してシドンに行って、いきなりデカポリスに帰ってくるわけです。デカポリスは、ガリラヤ湖の南東側の国です。地図を見ると、聖書の記事に違和感を持つと思います。シドンからデカポリスそしてガリラヤ湖という順番であれば、シドンからデカポリスに一気に飛んでこなければ成り立たない旅程だからです。
それが、ゴランと書くべきところの誤記であるとすれば、単純に川を下ってガリラヤ湖に戻ったことにになります。いずれ、聖書的にみると、フェニキアとデカポリスは異教徒の町です。イエス様は、その異教徒の町を歴訪しました。それは、使徒たちの時代になってから実現する異邦人伝道を思わせるのだと言えます。
参考までに、イスラエルの範囲は、ガリラヤ、サマリア、ユダ、ユダの属国イドマヤです。
1.癒しが起るとき
この記事は、いわゆる癒しの出来事です。この耳が聞こえず舌の回らない、今でいう聴覚障害者の方の癒しです。この人だけを群衆の中から連れ出して、指をその両耳に差し入れ「エファタ」、開け、という言葉によって、開いて話すことができるようになりました。
彼は 人とのコミュニケーションが取れず、疎外されていました。村人たちはそのことに心を痛め、何とか治らないものかと願っていましたが、何も出来なかったのです。そこに評判のイエス様が来ました。村人たちは、その人ならば癒してくださるかもしれないと思って、障害のある人を連れてきたのです。イエス様はそこに、村人の信仰を見ました。村人たちの信仰が障害のある人をイエス様に「出会わせ」、そして、イエス様は深く息をついで、祈ったのです。 しかし、昔も今もこのような癒しの出来事は、普通ではありません。また、治らない多くの人もいます。私たちは、このような癒しをどう考えるべきでしょうか?。
2.癒しの意味
イエス様は、多くの人を癒しました。らい病人を癒し、歩けない人を治しました。人々はそれらの不思議な業を見て、この人には神が特別な力を与えておられると思ったのでしょう。だから、イエス様の所にたくさんの人々が押しかけました。イエス様がシモンの家で人々に話をしていた時も、たくさんの人々が押し寄せ、家の外まで人があふれていたのです。そこに、四人の男に担がれて、中風の人が床に乗せられて運ばれてきました。イエス様の評判を聞き、この人なら病を治して下さるかもしれないと思った村人が、床に病人を乗せて運んで来たのです。ところが、家は戸口まで人があふれて中に入ることは出来ません。彼らは、諦めず、床を担いだまま、屋根に上り、屋根に穴を開け、この病人をつり下ろしました。とっても、信じられない行動です。イエス様も驚いたでしょう。しかし、驚きと同時に、彼らの必死さに、感動します。
今日のマルコ7章も似た物語だと言えます。障害のある人をイエス様の前に連れてきた信仰が、イエス様の感動を呼びました。それで、イエス様は「天に祈った」のです。残念ながら、私たちにはこのような癒しの権能は与えられていません。しかし、その生涯を共に悲しみ、そして、「共に天に祈る」ことは出来ます。・・・福音書に繰り返し出てくる「癒し」ですが、そのものズバリのギリシア語は、文字通り「救う」、「癒す」という言葉“ソーゾー:σῴζω” です。しかし、あまり出てきません。ほかは何かというと「奉仕する」という意味のまったく別の言葉“セラペオー:θεραπεύω”なのです。英語 Therapy の語源となった言葉で、これを病人に対して当てはめると、「看病する」、「手当てする」というニュアンスだと言えます。
イエス様にとって、神の国を実現するために大事なことは、「癒し」ではなくて、「看病」や「手当て」に奉仕すること、つまり、苦しさを共有することでした。
村人たちは、「耳が聞こえず舌の回らない人」をイエス様の所に連れて来ました。その信仰をイエス様と「共有」できたのです。私たちは足の不自由な人に、「起きて歩け」と言うことは言えません。しかし、足の不自由な人が、行き来できるようにと配慮することは出来ます。私たちは、癒しを行うことは出来なくとも、イエス様の前に中風の人を運んだ四人や、耳が聞こえない人を連れてきた村人のようには、なれるのです。イエス様の前に人を運ぶ、その先は、赦しと癒しの権能を持っているイエス様にお委ねするのです。神の国は、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、貧しい人は福音を伝えられている」国です。人はみな祝福されて生まれてきました。しかしその祝福が取り去られ、苦しみの中に置かれている人がいます。私たちは、そのために何が出来るのでしょう?それを福音記者は、奇跡物語として取り上げているのではないでしょうか。癒しの奇跡が本当に起こったかどうかは、議論しても結論は出ません。しかし、その奇跡を書いた意図を読み解かせ、私たちでも出来ることをそこに見つけるために、奇跡物語があるのです。