2025年 9月 14日 主日礼拝
「帰れや 我が家に」
聖書 ルカ15:11-32
今日のたとえは、イエス様が「罪人を受け入れている」具体的には罪人と食事をしていることに、ファリサイ派の人々が不平を言ったことがきっかけでした。イエス様は、罪人を受け入れる理由を3つのたとえで教えます。その、最後をしめくくるのが、この有名な放蕩息子の物語です。この物語は、父なる神様が私たち放蕩息子を慈しむ思いを、よく表した、ルカだけが書いている記事です。ほかの2つのたとえは?と言うと、一つ目「見失った羊」はマタイ(18:12-13)にはありますが、マルコ、ヨハネにはありません。また、2つ目のたとえ「無くした銀貨」は、ルカ特有の記事です。このようにルカは、罪人を受け入れる理由をたとえで3つ続けて書いたのです。私の想像ですが、ルカ自身が、「見失った羊」であって、「無くした銀貨」でもあった。そして「放蕩息子」であった。それなのに、神様は一度は失ってしまったルカを探し出して、受け入れてくださった・・・そんな背景をルカが持っていたのでは?と思います。
さて、今日の3つ目のたとえの発端はこの記事でした。
ルカ『15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。』
徴税人たちと罪人たちがイエス様のところに話を聞こうとして集まってきました。ファリサイ派の人々や律法学者たちから見ると、ローマに納める人頭税や通行税を取る徴税人は、ユダの国を売る裏切り者です。ですから、罪人以上に嫌っていました。また、罪人とは犯罪人のことではありません。神様に背く人、すなわち律法を守らない人々のことです。正確に言えば、律法を守りたくても守れないのが人間ですから、すべての人は罪人です。そこには例外はありません。つまり、ファリサイ派の人々や律法学者たちも 私たちと同じ罪人なのです。しかし、彼らには罪人としての自覚がなく、彼ら以外の人々を罪人として、付き合うこと、特に食事を共にすることを避けていました。
参考のために、なぜ律法を守れないのか?理由を挙げてみましょう。
まずは、膨大な戒めの数とその複雑さです。 律法は旧約聖書のモーセ五書を基にしており、戒の数は613にものぼると言われています。安息日の遵守、食事規定(カシュルート)、祭儀の規定など、日常生活のあらゆる場面で細かく決まっているため、すべてを完璧に守ることは現実的ではありませんでした。
2つ目は、経済的・社会的制約です。 貧しい人々にとって、律法の規定を守ることは重荷でした。例えば、捧げ物の規定や、安息日の戒めは、人々にとって負担だったのです。
そして3つ目は、律法の解釈です。 律法の解釈は、時代や所属する群れによって異なります。そのため、それぞれの解釈で戒めができ、そしてお互いに裁きあっていました。そもそも人が作った戒めよりも、「隣人を愛しなさい」(レビ19:18)との神様からの戒めを守るほうが大事です。それなのに、彼らは自分の属する群れのために戒めを作りました。例えば、「イエス様を信じる」と言うと、会堂への出入が禁止となった(ヨハネ9:22、12:42)ことなどです。このように、神様ではなくファリサイ派の人々の思いで、掟が歪められていたのです。
ですから、イエス様はファリサイ派の人々にこのように教えました。
ルカ『6:37 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。』
ファリサイ派の人々や律法学者たちは、人々を罪人だと決めつけました。そしてその罪人と付き合うことを避けます。その行いが、彼らから見れば自分らの権威でありましたが、イエス様から見れば罪そのものなのです。
イエス様が徴税人や罪人を受け入れ、食事をしているのを見て、ファリサイ派の人々と律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と非難しました。そこで、イエス様は「見失った羊」のたとえと「無くした銀貨を探す」 たとえを話したのです。そして、最後に念を押すように、放蕩息子のたとえを話しました。父親は神様、兄はファリサイ派の人に置き換えましょう。もちろん、放蕩息子とは罪人のことです。そして、この放蕩息子は自分のことだと・・そう思ってこの物語を読んでください。
まず、この放蕩息子の兄に注目しましょう。弟(放蕩息子)が帰って来てすぐ、父親は喜んで祝宴を始めました。そこに兄が畑から帰って来ました。兄は、音楽や踊りの音が聞こえたので、「これはいったい何事か」と 僕に尋ねます。兄は放蕩を尽くした弟が帰って来て、父が歓迎のための宴会を開いていると知り、怒っていました。怒って家の中に入ろうとしない兄を、父はなだめます。
しかし、兄は父に不満がいっぱいなので、このように批判します。
『15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』』
「仕える」は原文では「奴隷として仕える」(ドウレウオー:δουλεύω)という言葉が使われています。兄の主張は、『私は「しもべ」のように「あなたの言うままに」仕えてきました、長年の間、わたしはあなたの「奴隷」だった』 とのことです。この放蕩した弟のために父は、「肥えた子牛」を屠っているのに、兄である自分には「子山羊一匹」すら屠ってくれたことがない。このように、兄は父親に不満を言いましました。そして彼は弟を「私の弟」と呼ばず、「あなたのあの息子」と呼びます。この兄の言葉には、父親への敬意がありません。兄にとって、父との絆は、愛と信頼ではなく「仕える」ことと「財産」だったのでしょう。この兄の姿は、律法を守っていると自負し、「財産」をこよなく愛するファリサイ派の人々に重なります。
次に、お父さんに注目しましょう。
『15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」』
弟である放蕩息子は、お父さんのもとから遠くへと離れていきました。けれども、放蕩の末全財産を無くしたとき、弟は父の保護を求めて戻ってきました。父のもとに立ち返ったのです。兄の方は、その逆です。いつも父親と一緒にいました。しかし、兄の心は、遠くにいた弟よりも・・・父から離れています。兄もまた 失われている 「死んでいた息子」なのです。
父は、兄に対して「子よ」と呼びかけます。どのような態度をとろうとも父にとっては「子ども」です。「奴隷」ではない愛する「息子」です。父は兄をとがめることなく「いつもわたしと一緒にいる」ことの幸いをさとします。そして、全財産はすべてお前のものだ、と告げました。父は、弟と同じように彼を愛してこのように言ったのですが、兄は父の愛を感じていません。そこで父は上の息子に向かって下の息子の事を「お前のあの弟」と言います。これは、兄が父を責めるために使った「あなたのあの息子」と同じ言い方です。兄は父に責任があると責めたことに対して、父は兄にも弟を愛する責任があることをさとしたのです。
ここで放蕩息子のたとえは終わります。ですから、兄が、家の中に入って、祝宴に加わったかどうかは書いていません。なぜなら、今まさにこの場で、徴税人と罪人と食卓を囲んでいるイエス様が、ファリサイ派の人々と律法学者たちを招いている最中だからです。「兄」とは、ファリサイ派の人々と律法学者たちです。「弟」とは、神様に立ち返ろうとしてイエス様と食卓を囲んでいる徴税人と罪人たちです。イエス様は、このたとえを通して、「兄」である、「ファリサイ派の人々や律法学者たち」に「父」である神様の憐れみ つまり、悔い改めた罪人を歓迎している神様の喜びを伝えました。だから、罪人を避けていた彼らを 今「この祝宴」に招こうとしたのです。憐み深い父である神様は、彼ら「神様のそばにいつもいるようで、心は神様から遠いファリサイ派の人々や律法学者」に対しても、悔い改めた弟つまり「徴税人や罪人たち」のように 神様のもとに帰って来ることを願っているのです。
しかし、このイエス様の招きは受け入れられませんでした。実際に、彼ら宗教的指導者たちは、イエス様の招きに応じるどころか、最後にはイエス様を十字架にかけてしまいました。
そして、十字架で一度死んだイエス様は、三日目に復活し、弟子たちの前に現れます。この弟子たちは、イエス様の十字架のとき、最後まで一緒にいると誓いながら、裏切って塵尻に逃げていました。・・・しかし、逃げて隠れている弟子たちを イエス様はご自身から訪ねたのです。父なる神様と、私たちをとりなすためにです。イエス様は、放蕩息子である弟子たちを 首を長くして待っていたのではなく、ご自身が一人一人の前に現れ、そして呼び集めたのです。このように一度裏切ってしまった弟子たちを迎え入れ、弟子たちを再び遣わす。このように、イエス様はすべての人を神の国に招いているのです。今も、父なる神様はイエス様を通して、すべての人を「祝宴」に招いています。イエス様が招いている場所は、神の国、そしてその入口であるこの教会です。
この「放蕩息子のたとえ」は「放蕩息子の兄のたとえ」でもあります。そして「憐れみ深い父のたとえ」です。放蕩した末に戻ってきた弟、父のそばにいながら心が離れている兄、そしてこの兄弟の父親の立場になって、この物語を振り返ってみましょう。
私たちは、このたとえの兄や弟のように、神様から遠く離れた罪人でしたが、イエス様の十字架と復活によってその罪が赦され、父なる神様に迎え入れられました。こうして「神様の愛」、「キリストの愛」を頂いているのです。そのために、イエス様はいつも私たちを招いています。この、招きにこたえてまいりましょう。