本来のこの福音書の最後は、この文章です。マルコ『16:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。』 結び二は、この終わり方を補完するために、後日付け加えられたと言われています。一方で結び一は、結び二よりも古く、2,3世紀ごろにイエス様の伝承を書き加えられたものとされています。
1.復活の証人
週の初めの朝早く、よみがえったイエス様は、まずマグダラのマリヤの前に現われました。先にみ使いが現れ、今度は、イエス様ご自身が現われたのです。そしてほかの弟子たちではなく、最初に、マグダラのマリヤに現われました。ですから、マグダラのマリヤが、復活の最初の証人となりました。
マリヤはイエス様の弟子たちのところに行き、そのことを知らせます。しかし、彼らは、イエス様が生きていると聞いても、それを信じようとはしませんでした。
弟子たちは、イエス様が生きていることを知らされても、嘆き悲しんでいました。喜び叫ぶべき知らせでしたが、信じなかったので、泣き悲しみ続けたのです。これは、不信仰の結果です。良い知らせを信じなかったので、いつまでも悲しみの中、苦悩の中にとどまってしまうのです。
その後、彼らのうちの二人が田舎のほうへ歩いていたとき、イエス様はご自身を現わしました。ルカの記事によると、エマオに向かう途中のことです。そこでイエス様は、ご自身を現わしたのです。二人の弟子は、途中で、この人がイエス様だと気づくと、イエス様の姿は消えてしまいます。そして、急いでエルサレムに戻って「イエスを見た」ことを他の弟子たちに告げたのです。しかし、他の弟子たちのところへ行って知らせましたが、彼らは二人の話も信じませんでした。
彼らは、マリアを含めて3人もの証人がいるのに、事実として受け入れません。普通、証人は2人か3人で十分とされていましたから、聖書の教えに従わない判断でした。
(申命記『19:15 いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。』)
その後に、イエス様は11人の弟子が食卓に着いているところに現れます。彼らの不信仰とかたくなな心をみて 咎めました。それは、彼らが、よみがえったイエス様を見た証人たちの言うことを信じなかったからです。このとき、咎めたのはそのことだけでした。イエス様が十字架につけられる時に、彼らが逃げてしまったことについては咎めてはいません。イエス様のよみがえりの証人が3名もいたのに、彼らの言うことを受け入れなかったことだけを咎めたです。
2.宣教命令
イエス様は、復活を信じる福音を、弟子たちに宣べ伝えるように命じました。
『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。』
イエス様は、ご自身がよみがえられたことを「福音(エヴァンゲリオン:Εὐαγγέλιον)」と呼びました。「良い知らせ」という意味です。人々が求めていた救い、豊かないのち、平和、正義など、あらゆる良いものが、イエス・キリストを通して与えられるのです。キリストが、実際によみがえったのです。使徒たちは、マリアと二人の弟子からイエス様の復活の証言を聞きましたが、復活したイエス様を見たことを、自身たちが証人となって宣べ伝えるのです。
『16:16 信じて洗礼(バプテスマ)を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。~』
ここに、神様にさばかれるか、それとも受け入れられるかの判断の基準が書かれています。行ないではなく、信仰です。ここに「バプテスマ」のことが書かれていますが、バプテスマは、自身がキリストのものになることを公にする礼典です。バプテスマの水は墓を意味しています。水の中に入るとき、私たちは葬られました。キリストが罪を背負って、墓に葬られたように、罪に支配されていた私たちが死んで、葬られます。そして水から出てくるとき、私たちは新たに生まれるのです。キリストがよみがえられたように、私たちも、新たな命を与えられたのです。
『16:17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。16:18 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」』
奇跡のようなことが列挙されていますが、これらのことはすべて、使徒言行録の記事にあります。当時の伝道には、自然との闘いや、癒しが不可欠だったと言えるのかもしれません。そして、弟子たちは、イエス様の命令に従います。