1.ペトロの信仰告白
イエス様自身が弟子たちに、聞きました。『人々は、人の子(イエス様の自称)のことを何者だと言っているか』と。当時、巷ではイエス様のことを「洗礼者ヨハネ」だとか、「預言者エリア」だとか預言者「エレミア」だとか・・・言われていたわけです。ラビ(教師)であったことは、間違いありませんが、それ以上の評価をする人もいて、それぞれ受け止め方が違っていました。
ルカ『9:7 ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいれば、9:8 「エリヤが現れたのだ」と言う人もいて、更に、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいたからである。』
この箇所を見れば、『バプテスマのヨハネの生まれ変わり』と言われています。また、エリヤの死が聖書に記載されていないことから、当時、エリヤが再来するとの伝承があったことを受け、『預言者エリヤの再来』と言われていたことがわかります。そして、昔の預言者については、誰とは特定されていませんが、エレミヤなどが取りざたされていたと思われます。なぜならば、エレミヤは旧約の続編の中に登場して、十戒を刻んだ石板を入れた契約の箱をエジプトの洞穴に隠しているからです。
二マカバイ『2:5 そこに到着したエレミヤは、人の住むことのできる洞穴を見つけ、そこに幕屋と契約の箱と香壇を運び込み、入り口をふさいだ。』
このように、イエス様が誰であるかと言うはっきりとした評価はなかったわけです。そこでイエス様が弟子たちに聞くと、ペトロが答えます。
『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えたわけです。それに対してイエス様は、『あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。』と褒めるわけです。ただ、この時ペトロが本当に意味かわかっていたかと言うと、ほぼ怪しいと言えるでしょう。そこでイエス様は、自らの受難の予告をします。
2.死と復活の予告
『 16:21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。』ペトロは、意味がわからなかったし、自分の夢見ていた形とあまりにも違いすぎるので、イエス様を諫め始めました。イエス様が神様のご計画、み旨を打ち明けていたのに、ペトロは夢見る少年のようでした。そもそも、イエス様の使命が何であるかを理解もせずに、自分の夢のためにイエス様についてきていたと言われても仕方がないペトロです。しかし、夢に対して盲目なペトロは、イエス様が自分の思うとおりになってほしいとの願いから、イエス様をしかりつけてしまいます。イエス様は、ペトロに強い言葉で言います。
『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。』
イエス様が誰であるのかわかったのは、十字架と復活の後でした。ペトロは、理解しないまま、イエス様をメシアだ と言っていたのです。でも、これは、非難すべきことではありません。誰しもすべてを知って、信仰に入るわけではないからです。
3.岩ではないのに
この理解していないペトロを褒めた後に、イエス様はあなたはペトラ(岩)だ、と言って今まで呼んでいた「シモン」とか「ヨナの子」と呼ばずに名前を与えました。なぜ、このシモンにペトロという名を与えたのか、理由ははっきりしません。そもそも、ペトロは人間的に言えば、おっちょこちょいのイメージが強く、岩というよりも軽い人間だったと思います。そのシモンに、おまえは岩だとイエス様がいうのです。
名前は、聖書の中では非常に大事なもので、その本質を現すものが名前であります。だからイエス様がペトラ(岩)だ、と言った時に、やはり本当に、ペトロに、岩のようなものになってほしかったのだと思います。でも、ペトロが今そうなれそうかと言えば、現実はそうではありません。時間をかけて、十字架と復活の体験を通して、また伝道と迫害の体験を通して、岩のように固い信仰を持つようになった。それで、初代教会の第一人者、つまり最初のローマ法王にまでなったのです。
やはりわたしたちは時間をかけなければ、本当の姿というか、本物の信仰は見えて来ません。それは祈りと信仰生活を深める中にこそ、現われてくるものなのです。