2025年 2月 23日 主日礼拝
『真理と愛のうちに』
聖書 ヨハネの手紙二 1-13
今日は、ヨハネの手紙二からです。この手紙は、エフェソにたてられた教会の長老ヨハネが書いたものですが、このヨハネは使徒のヨハネであるか、その後継者であることは間違いありません。ヨハネ共同体と呼ばれるグループの教会にあてて、ヨハネは三通の手紙を書きました。それがヨハネの手紙です。そこに見えるのは、分裂に悩む教会の姿です。ヨハネの教会では、グノーシスと呼ばれる人々が教会に入ってきて、そして出て行きました。グノーシスは、キリスト教ができた紀元1世紀ごろのキリスト教の一派です。グノーシスという言葉自体はギリシャ語で、知識のことです。ここで、お話ししたいのは、当時ヨハネが直面していた問題です。キリスト教に似ているけれども、キリスト教ではないことを教える。そういう人たちが教会に入ってきて、多くの信徒に混乱をもたらした・・・それが問題だったのです。ヨハネは、彼らを反キリストと呼びました。イエス様を救い主と認めないからです。ヨハネは彼らについてこんなことを言っています。
Ⅰヨハネ『2:19 彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。』
この手紙から読み取れるのは、彼らはイエス様が「救い主キリスト」であることを認めていないことです。彼らは、神様の霊がイエス様に宿ったのは、バプテスマの時だけだったと考えました。たしかに字ずらだけで福音書を読めば、そういうことになるかもしれません。しかし、イエス様を救い主として認めないのは、キリストにある救いを否定を意味します。それを、「反キリスト」と呼びました。事実、ヨハネ自身も反キリストという言葉を使って、彼らに対しての警戒を示しています。
『1:7 このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。』
彼らはイエス様が救い主であることを否定し、そして、十字架の贖いを否定しました。イエス様の十字架の贖いを否定するならば、「自分も十字架を背負って、キリストに従う」という信仰を持たないのです。そういった反キリストの人は、十字架を背負ってまで、教会に仕えることはしないでしょう。それはつまり、何かきっかけがあれば、教会から離れていくことを示します。
ヨハネは彼の共同体の人々に語ります。
『1:8 気をつけて、わたしたちが努力して得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい。1:9 だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません。その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。1:10 この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。1:11 そのような者に挨拶する人は、その悪い行いに加わるのです。』
ここでヨハネは、反キリストの人々が教会から出て行ったならば、「家(教会)に入れるな」と警告しています。これは、あくまでも教会を守るという視点での話であります。所謂「腐ったリンゴ」が樽の中のリンゴ全てをダメにするということと発想が同じです。イエス様を魂の救い主と信じる私たちの中に、理性をもってイエス様を裁く人が入ってきたら、信仰を守れるか?・・・それは、たいへんなことです。教会を守るためには、不安要素は消し去る。そのことはやむを得ないと言えるでしょう。もちろん、ヨハネは、「反キリストの人々を切り捨てなさい」という趣旨でこの手紙を書いているわけではありません。敵対することをではなくて、むしろ教会に残っている人々が互いに愛し合うことを願っているのです。
『1:4 あなたの子供たちの中に、わたしたちが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました。』
この記事から、手紙のあて先の教会では、分断が起こっており、そこには「真理に歩んでいない人々が多くいた」ことが読み取れます。そんな教会にありながらも、「真理に歩んでいる人がいる」ことをヨハネは喜んでいるわけです。反キリストの人がそこにいたとしても、その人たちを裁くことよりも、「教会内の人々がお互いに愛し合う」ことがもっと大事だとヨハネは語っているのです。
『1:5 さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。1:6 愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。』
ここに語られている「愛し合う」とは、仲良くすることを指すのではありません。イエス様がしたように、「弟子の足を洗う」ような、人に仕えることを指しています。弟子の足を洗ったとき、イエス様は言いました。
ヨハネ『13:14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。』
イエス様が「互いに足を洗い合いなさい」と教えたのは、最後の晩餐の席です。弟子たちは、誰も他の人の足を洗って仕えようとはしません。そこで、イエス様自らが立ち上がって弟子たちの足を洗い始めました。「イエス様が自ら弟子たちの足を洗ったのは、互いに仕え合う手本となるためだった」とヨハネは記しました。足を洗うのは、目下の者の仕事です。それをイエス様は弟子たちにしてくださったのです。あのイエス様を裏切るユダの足も洗いました。そして、受難の日に「イエス様を知らない」と言って逃げたペトロ。イエス様は彼の足も洗いました。裏切ることが分かっていても、イエス様はその裏切り者に仕えて、足を洗ってくださったのです。この2人だけではありません。12人の弟子すべてが、十字架のとき、イエス様を捨てて逃げたのです。弟子たちが裏切ることを知っていながら、イエス様は弟子たちに仕えました。それは、愛されているから愛するのではない、一方的な愛です。
さて、ヨハネのグループは、イエス様の十字架と復活の後、使徒ヨハネを中心として成立しました。やがてユダヤ戦争が起き(66-70年)、都であるエルサレムは陥落します。そして、ユダヤ人たちは国を追われて難民となります。その後、ヨハネのグループは、小アジアに渡って、エフェソを中心にしたいくつかの教会を生み出しました。そのグループの信仰告白として生まれたのがヨハネによる福音書です(90年頃)。このグループも、迫害に直面します。そこで、ヨハネはヨハネ黙示録(95年ごろ)を書き、迫害に苦しむ信徒を慰めました。そして、ローマ帝国からの迫害が終わると、今度はグループ内にグノーシスと呼ばれる異端が生まれて、教会が分裂する危機が訪れます。それに対して長老のヨハネが書いたのが三通のヨハネの手紙と言われています。
ヨハネによる福音書とヨハネ黙示録、三通のヨハネの手紙は同じグループの中で生まれました。黙示録そのものが小アジアにある七つの教会、つまりヨハネのグループの教会に宛てて書かれた手紙です。その中心となったエフェソ教会にあてては、次のような記事があります。
黙示録『2:2 「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。2:3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。』
ところがその後に、叱責の言葉が続きます。
黙示録『2:4 しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。2:5 だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。』
エフェソの教会は異端の教えに惑わされることはなかったようです。しかし、信仰を吟味しようとする努力が度を越して、「初めのころの愛」から離れ、お互いを裁き合うようになったのだと推察されます。だからヨハネは、「初めのころの愛に戻れ」と語っています。なぜなら、教会は 裁く場ではなく、お互いの足を洗い合う、仕えあう場です。相手に仕える愛があってこそ、キリスト者たり得るのです。そして、仕えあうならば、そこはすでに教会なのです。
今日のみ言葉にヨハネ13:34を選びました。最後の晩餐でのイエス様の言葉です。
ヨハネ『13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。』
イエス様が弟子たちに示した愛の手本は、足を洗うことでした。それは主人が奴隷のように奉仕することを意味します。イエス様はユダの足も、ペテロの足も洗いました。自分を裏切るであろう者たちにも仕え、足を洗ったのです。ここに無条件の赦しがあります。イエス様の十字架が救いであるのは、イエス様の犠牲によって私たちの罪が赦されたから、と 私たちの視点だけで見てはいけません。イエス様の視点でも見てみましょう。そこには、かけがえのない赦しがあるのです。イエス様は、十字架上で自分を処刑しようとする者たちについても、神様に赦しを求めました(ルカ23:34)。また、復活後のイエス様は、自分を捨て去った弟子たちを訪ね、「あなたがたに平和があるように」と祝福しました(ヨハネ20:19)。絶対的な赦しがここにあります。どんなことがあっても、私たちを愛し、受け入れて下さるイエス様がおられる。それが福音、良い知らせなのです。この良い知らせを、心の支えに、イエス様に倣って互いに仕えてまいりましょう。