ルカ5:33-39

新しい掟 

2022年 36日 主日礼拝     

 「新しい掟

聖書 ルカ5:33-39

今日はルカによる福音書から、イエス様のみ言葉を取り次ぎます。この記事はマタイ(9:14-17)やマルコ(2:18-22)にもありますが、ルカのオリジナルなところは、最後にある『古いものの方がよい』という記事が加わっているところです。何故このようなことを付け加えているのか?これを付け足したルカの意図は推し量るしかありません。しかし、ぶどう酒は長く熟成させたものがよいものであることは、昔から変わらない事だと思います。新しいぶどう酒は、新しい契約の象徴である「新しい契約の血」だとしたら、新しい革袋は新しい契約を生活面で支える「新しい教え」だと考えてよいでしょう。イエス様が用意された新しい契約は、新しい教えでこそ破れることはなく、そしてぶどう酒を熟成させることができるのです。そして、もちろん、古いぶどう酒がよくないと言っているのではありません。旧来の契約も旧来の教えの中で熟成して、これはこれで良いものだからです。しかし、その旧来の契約は良いものだと言っても、契約の儀式と言いますか、宗教的な慣習を形だけ真似しただけなら、それは良いものとは言えません。その契約にあった宗教的な慣習が必要だということだと考えます。ですから、新しい契約には、新しい宗教的な慣習が、そして従来の信仰には従来の宗教的な慣習が必要です。ファリサイ派の人々が要求しているのは、新しい契約に対しても、従来の宗教的な慣習、つまり律法を要求するものですから、旧来の契約のために作られた革袋の目的を見失っているように見えます。つまり、旧来の契約のための宗教的な慣習であった「古い革袋」としての律法ですから、新しい契約のために使うこと自体が的を射ていないのです。

 

 さて、今日の聖書は「断食」の話題から入りますが、新共同訳聖書の語句解説では、このように説明しています。

「断食(だんじき) 宗教的な動機で一定の期間,食事を断つこと。~」

ユダヤ教では、断食は、祈りと、施しに並ぶ良い業とされていました。贖罪の日の断食(レビ記16章)や、何かの理由で公に宣言してから行う断食、それから、ファリサイ派の人々がおこなっていた月曜日と木曜日の定期的な断食があります。ルカによる福音書には、

『18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』』

との記事があるように、ファリサイ派の人々のたしなみだったようです。今日の聖書の箇所で言う断食は、たぶん、この週二回の断食についてです。このことをイエス様に聞いてきた人々とは徴税人レビ(マタイ)の家に食事に招かれた人々で、おそらくファリサイ派の人々です。そして、イエス様への質問は、こうでした。

『ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。』

 ヨハネの弟子とは、バプテスマのヨハネの弟子のことです。イエス様のグループは、バプテスマのヨハネと深いかかわりがありました。イエス様はバプテスマのヨハネからバプテスマを受けていますし、ヨハネによる福音書によるとイエス様の弟子ペトロとアンデレは、バプテスマのヨハネの弟子だったからです。

「バプテスマのヨハネの弟子たちはファリサイ派の人々と同じように、週二度の断食をして祈っているのに、同じバプテスマのヨハネの仲間のイエス様の弟子たちは、断食をしないばかりか、宴会で飲み食いをしているが、弟子たちも断食するべきではないのか?」という問いだと言えます。イエス様は断食を否定していませんし、実際にイエス様ご自身も断食をされたとの聖書の記事もあります。ですから、弟子たち、または広く言って教会が断食に取り組むことは自然の流れです。そういう意味からいって、ファリサイ派の人々の問いは、普通に疑問に思うことでありました。

 すると、イエス様は、このようにお答えになります。

『花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。5:35 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。』

 なにか、よくわからない答えです。花婿とはイエス様の事ですので、このような意味だったわけです。

「今は、イエス様といっしょにいるのだから、祝うべき。そしてイエス様に死が訪れるとき、断食するようになる。」

 この説明では、イエス様は弟子たち、または教会が断食をする必要を認めているわけです。しかし、具体的にいつどのような場合と言うところまでは、話をしていません。また、もうひとつ答えなければならないことがありました。それは、なぜ断食が必要かについてです。ファリサイ派の人々は、律法にあるからということで断食が必要と考えていたのでしょう。イエス様は、それを直接言葉にすることではなく、譬えでお話になりました。

 弟子たちはもはや、新しい契約を古い儀式に結び付けることはしていません。それは、ちょうど新しい着物を割いて古い着物継ぎあてに使ったり、新しいぶどう酒を古い革袋に入れてもうまくいかないのと同じことです。そもそも新しい服から継ぎあてのために布を切り出したのでは、服が無駄になってしまいます。それで古い服の穴が覆えたとしても、新しい布が目立つだけではなく、継ぎ目はすぐにだめになってしまいます。新しい布は強く、そして伸びるからです。同じように新しいぶどう酒を古い革袋に入れてもうまくは行きません。古い皮は伸びきっており、いまから発酵が進む新しいぶどう酒を入れていると破裂してしまうのです。古い布や古い皮袋は、もう環境に合わせて変化しないのです。逆に、新しい布や新しい皮は、まだ生きていて伸びて変化することができます。これから、形や大きさが変わっていく新しい布は、伸びるにしたがって、古い布の穴を支えなくなります。また、形や大きさが変わっていく新しい革袋は、その皮の伸びによって、新しいぶどう酒を入れても破裂しないのです。

 イエス様は譬えで、礼拝のありよう儀式のありよう、そして慣習のありようは、新しい契約の生き生きとした姿に適していなければならないと教えました。しかし、これを聞いた弟子たちは、このことが現実な自分たちの問題となることに気が付いていたわけではありません。イエス様の十字架の出来事、そして復活の出来事の後、イエス様の群れは教会を作りました。全世界にキリスト教が広がっていく中で、旧来の古い慣習や教えを守ることを大事に考える信徒と、そうではない外国人を中心とした信徒の間にこの問題があり続けました。このルカによる福音書を書いたのは、パウロの伝道旅行に同行して使徒言行録を書いたルカですから、この事情はよく知っていたはずです。この問題があるがゆえに、パウロなどの指導者や信者がユダヤ人によって迫害されたのです。そして、パウロもそうだったように、決して旧来の律法を否定したのではありません。そうではなくて、イエス様の十字架の贖いが起こるまでは、「律法はキリストのもとに導く養育係」(ガラ3:24)だとしていました。律法を尊重し、そして律法を守っていたのです。ルカは、そのことを含めて「古いぶどう酒」のことを『古いものの方が良い』と書き足したのかもしれません。

 また、ルカは、徴税人レビの家での宴会を教会の主の晩餐と重ねて、書きました。教会は、たしかに断食や苦行をすることを人に見せるための場所ではありません。人と人が交わる。そしてそれぞれの人の背後にイエス様の導きがある。そこが本当の意味での教会です。そこには、旧約聖書の律法は要求されていませんが、「古くて新しい律法」があります。それは、「神様を、イエス様を愛すること。」そして、「自分のことのように隣人を愛すること。」です。イエス様の掟と言ってよいでしょう。古い革袋が、旧約聖書の律法を指すならば、新しい革袋は、イエス様の掟だといえます。

 

 ルカは、使徒言行録の中で、教会の中での食事に触れています。使徒言行録に出てくる教会は、宗教的な意味で共に食べることを積極的に勧めています。しかも、それは礼拝の中心でした。主の晩餐式です。ルカの書き残した初代教会では、礼拝を「パンを裂くために集まること」と呼ぶほどです(使徒言行録20章7節)。レビの自宅で行われた盛大な宴会のことを、ルカは主の晩餐と重ね合わせていたと思われます。元の記事は、マルコ福音書2章18-22節ですから、ルカは微妙に書き換えています。ルカ独特の言葉遣いに注意しながら、確認していきましょう。

マルコ『「なぜあなたの弟子は断食しないのか」』 この問いに対して、ルカでは弟子たちが『飲んだり、食べたり』していることを付け加えています。つまり、これは礼拝の中で、パンを割いて配り、盃のぶどう酒を配っていることを、レビの家での大宴会と結び付けているのです。また、ルカは「新しい契約」(22:20)という言葉を、主の晩餐式の記事で使っていますが、もとのマルコでは契約だけですから、「新しい」を付け加えられています。この新しい契約という言葉は、パウロの書簡に出てくるもので(二コリ3:6)、元は預言者エレミヤの言葉です(エレミヤ書31章参照)。パウロやルカは、その言葉を書簡や福音書に反映したのだと思われます。

 そして、この新しい契約という言葉が、新約聖書の語源です。キリスト教はユダヤ教の中の1グループでした。その分かれる際に、「自分たちは新しい契約に立つ」と主張したのでした。新しい契約の対極にあるのが旧い契約です。それは旧約聖書に書かれているモーセの十戒を指します。そもそも旧約聖書は、ユダヤの伝統やユダヤ人の歴史の重要性をも示しています。そして、新約聖書は旧約聖書の基盤の上にあります。旧約聖書なしには新約聖書に書かれていることの意味を正しく理解することができません。そして、ルカが書いたように「古いものの方が良い」と言って新しいものを欲しがらないこともあるでしょう。また、その逆もあるかもしれませんが、単純に新しいから良いとか古い方が良いという理由はありません。それでも、確なことはイエス様を神様として信じる者には、旧約聖書と新約聖書のどちらも必要なことです。しかし、旧約聖書の律法については、私たちキリスト教の立場からすると守る必要がありません。わたしたちが義とされるのは、律法を守ることによってではなく、イエス様が十字架で私たちの罪を贖ってくださったからです。私たちは、その十字架の出来事を記念し、主の晩餐式でイエス様の体であるパンと、イエス様が十字架で流された血である盃を、感謝していただきます。そして、その主の晩餐を行うところ、すなわち「パンを割くところ」が教会なのです。ですから、キリスト教会は、最初のころから礼拝の中で主の晩餐を守り、礼拝が終わってから一緒に食事をしていました。食卓の宗教ともいわれるくらい、食事を持ち寄って分かち合う食事をするのです。

 

 ところで、現在の教会の状況では、コロナ過でそのような食事もできず、また主の晩餐も守っているとは言え配餐ができない状態です。できるだけ早く、パン割きをするところである、教会の本来の姿を取り戻したい。私は、そう願っています。また、このことをみんなで祈ってまいりましょう。