1.ともし火とは
升を目にすることは、あまりありません。穀物やお酒を計るための木で作った四角い入れ物です。ともし火と言ったら、読み書きをするためとか、夜の手元、足元の照明です。灯芯3本で読み書きできたと伝わりますから、それ程度の明るさです。現代のように電球が点けば、その反射であたりが明るくなるわけではないので、できるだけ光を遮らないように「ともし火」を置かなければ意味がありません。つまり、升と言う木の箱に収めてしまったのでは、「ともし火」は、天井を照らすだけなのです。それは、寝台の下であっても同じです。寝台の裏側を照らすだけでは、何の役にも立たないからです。これらの行為は、明らかに愚かです。ふつうは、燭台に明かりを置くことで、光を遮ることがないように上から照らすわけです。もちろん、升の中や寝台の下においても、その場所に光をもたらします。しかし、その明かりは私ちに届く必要があるのです。その「ともし火」とはイエス様のことです。イエス様は、物陰に隠れることなく、誰にでも見える所に来て、人々を照らしました。
しかし、マルコの3章では、イエス様の母マリアや家族たちは、イエス様をメシアだと理解できませんでした。イエス様の光が届かなかったのです。そこには、イエス様が家族と一緒に生活した先入観があって、大工としてのイエス様、父親のヨセフの亡き後、家族を養うべき身が放蕩しているとしかか考えられなかったのでした。また、律法学者たちとファリサイ派の人々は、イエス様を認めたくはありませんでした。ですから、「ともし火」でであるイエス様を遮るように囲んでしまったのです。しかし、その光は聖霊が届けます。自分の隠したいところは隠し、人に見せたいと思うところを見せて生きてきた私に、聖霊は光を届けるのです。そして、聖霊の光に照らされた時、隠れていた自分の姿が露わにされるのです。
2.聞く耳のある者は聞きなさい
『4:23 聞く耳のある者は聞きなさい。」4:24~何を聞いているかに注意しなさい。』
そこでイエス様は、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言いました。一言で「聞く」と言っても、「何を聞いているのかに注意すること」が大事です。まず、注意深く聞く。これは、誰でも努力できます。しかし、そこでは、あなたの固有の秤で量る事になります。すると、み言葉を注意深く聞いても、あなたの秤で計れないほど大きかったり小さかったりしたのなら、み言葉に気が付くことはできません。また、それがあなたの秤で量れたとしても、計ったという事実と、そしてその量が多かった、少なかったの事実は、何の役にも立ちません。そこには、教えがあるのですが、イエス様が何をあなたに伝えようとしているのかを考え、そして応答しなければ、ただの計量報告でしかないからです。ですから、同じ説教を聞いていても、同じたとえ話を聞いていても、聞く人がどれだけ向き合っているかで、受けとれる恵みの質は変わってくるのです。
また、24節の後半は、ことわざです。
ギリシャ語では、 Βλέπετε τί ἀκούετε ἐν ᾧ μέτρῳ μετρεῖτε、
Pay attention to what you hear with the measure to measure(英語)
つまり、聞いたことによく注意を払いなさい。そして、あなたの秤で、そしてあなたが量りなさい・・・となっています。基準は、あなたの秤つまりあなた自身の知恵と知識と経験と言う「基準」を持って、そして人の意見ではなく自分自身で注意を払って、量りなさいとイエス様は教えました。注意を払うという言葉の中には、「ただ聞きっ放しではなく、またうわの空で聞いているのでもなく、あるいは疑いながら聞いているのでもなく」という聞き手としての受動的な注意が含まれます。そして、聞いたことを自分のこととして真剣に考え、悩みながらも思い巡らしつつ、御言葉の権威に従う決意を持ってほしい。そう言った能動的なことも、イエス様は言っているのではないでしょうか?
「あなたがたが測ったものは何であれ、それはあなたがたに測られるべきである。」
元となているのは、ユダヤ人の間で一般的なこのことわざです。さまざまな機会に、さまざまな目的で使用されました。イエス様もこのことわざを引用したのだと思われます。もし弟子たちがイエス様から聞いたみ言葉に注意深く耳を傾け、それを理解するために熱心に努力し、それを忠実に他の人々に配る。それは、弟子たち自身がみ言葉を物差しで計ったことと同じです。その見返りとして、よりよく計れた者には、より大きな量とより高度な霊的知識が与えられ、さらに恵みが増し加えられるのです。
3.みことばの光
この4章では「聞く」ということが強調されています。まさに、この「聞く」ことが「神の国」の鍵なのです。
『4:24 ~あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。4:25 持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」』
「あなたがたは、自分が量るその秤で自分にも量り与えられ、」と言っています。私たちがみことばを聞いた時、どういう信仰で聞いたのか、どれだけのみ言葉を受け入れて、理解し、そして行いに落とし込んだのか?がと問われているわけです。み言葉は、一方的に神様が与える恵みなのでありますが、だからと言って、誰でも同じ質と量の恵みに与れるわけではないのです。ある人は、片手を出して神様の恵みを受け取ろうとします。そして、ある人は両手を差し出しました。そして、ある人はその恵みを大勢で分かち合うために、大勢の人を連れてきました。当然、そのことだけでも、神様から受けとれる恵みの量が大きく変わるのです。そして、恵みが与えられるのは、一度ではなく何度もその機会があるわけです。恵みを少しでも受け取ってきている人は、明日以降も恵みを受け取り続けるでしょう。そして、残念ながら恵みを受けようとしない人には、その恵みが与えられないばかりか、持っているものまで自ら捨ててしまうでしょう。そして、恵みを受けようと心変わりしない限り、明日からも恵みを失う日々が続くのです。
ですから、「持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っているものまで取り上げ」られてしまいます。イエス様は、このみことばを通して語ります。その御声にどのように反応するか、それが私たちにとって大切なのです。