神に倣う
4章25節から、キリストの救いに与った新しい人としての霊的生活についてのパウロの教えが示されていますが、その具体的倫理的勧告が5章1節から始まります。
『5:1 あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。』
最初に、「神に倣う者となりなさい」との勧告です。「神に倣う」という言葉は、聖書中ここにしか出てきません。旧約聖書では、神の導きに従い歩むことが語られています。神の導きとは具体的には、御言葉によります。新約聖書では、キリストに従うこと、キリストに倣うことが教えられています。
ローマ『15:5 忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、15:6 心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。』
神に倣うとは、そのようなキリストの愛に倣う事 ということができるでしょう。それは、キリストの中に示され、キリストを知るに至った、わたしたちに対する神様の恵みです。これによって、わたしたちは、「神に愛されている子供」とされているのです。それゆえ、神に倣うとは、「キリストの中にあって」、神の子供たち として生きるということです。
ここで子供たちと言うのは、子供らしく無邪気な姿を指しているのではありません。ここでは、神に倣うこと、キリストに倣うという意味で神の子供たちなのです。それは、イエス様の地上でやったことの形を真似することではなく、救いの業、十字架での犠牲が倣うべきことなのです。
『5:2 キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。』
焼き尽くす献げ物(燔祭)では、動物を犠牲にして焼く その香りが満ちます。旧約聖書では、それを礼拝者が捧げる祈り、献身のしるしと理解し、罪ある人間に向けられている神の怒りを静める香ばしい「宥めの香り」だと言います。新約聖書では、それはイエス様の十字架であります。贖罪の捧げ物はキリストの十字架で完結されていますので、わたしたちが同じように犠牲になって死なねばならないということではありません。しかし、「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りの供え物」として生涯を捧げたように、私たちは他人に向けて、キリストの愛を分かち合う事が求められています。信仰共同体として、教会はキリストの体でありますから、他人の救いのために生きる信仰に立つわけです。
『5:3 あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。』
パウロが福音を宣べ伝えたローマ社会は、ギリシャ思想の二元論の影響を強く受けていました。そこには倫理的な二元論があり、精神さえ清ければよく、肉体はけがれていても精神に何も影響は起こさない、という考えがゆえに、性的な放縦、不品行、偶像崇拝が横行していました。
注)二元論:世界や事物の根本的な原理として、それらは背反する二つの原理や基本的要素から構成されるとの考え方。善と悪 精神と肉体等背反する2つの原理の立場で論ずる手法。何でもかんでも、どちらかに二元論で考えることを、二元論的思考といいます。
パウロの時代でも肉体の穢れは精神の清さを保つための障害だとの考えもあったのでしょう。ですから、パウロは、「みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません」と勧告をするわけです。
『5:4 卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。』
キリスト教は、倫理を教える宗教ではありません。しかし、人の生き方が、福音の光に照らして外れていることに対して、神に倣う者として、問われています。ここでパウロの勧告を受けているのは、世に妥協する教会です。この世的な習慣から抜け出せず、信仰を持った後も、世の悪しき交わりをしている者に向かって、パウロは厳しく勧告しているのです。クリスチャンの中にも、そういう人がいた。その現実があったからこそこのような勧告をしているわけです。例えば、働きもしないで、盗みをして生活していても、イエス様を信じていれば、確かにクリスチャンです。不品行なことについても同じです。しかし、それでは悪い霊に支配されていることになります。キリストに倣っているとは言えないのです。
キリストに倣う者としての最もふさわしい生き方は、キリストの恵みをいつも感謝に表すことです。パウロが「感謝を表わしなさい」とここで言っているのはとても大切なことなのです。神様への感謝を欠く人間は高慢で、人に厳しく自分に甘いところがあります。感謝の裏には、罪の深い自覚を必要とします。本当に自分の罪を知る者は、「罪なきキリストの血を必要とするほどの重い罪が赦されている」ことを深く感謝するのです。その感謝の思いがあれば、人を赦し思いやる心ができるのでしょう。本当に今わたしたちに必要なのは、キリストの恵みに感謝して生きることです。それがまたキリストに本当に倣う信仰を育むことになります。
『5:5 すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。』
この警告の言葉を真剣に聞かねばなりません。「すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者」は、「偶像礼拝者」だと言っています。人の手で造られた偶像を拝む者だけが、偶像礼拝者なのではありません。自分の思いに支配されている者すべてが、偶像礼拝者なのです。わたしたちが欲望に支配されているならば、それは悪い霊を求め、礼拝することと変わりません。その事実を認めるなら、パウロのこの言葉に納得できます。パウロは、「偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい」とまで、言っています。
みだらな者、汚れた者、貪欲な者は、神に倣う生活とキリストの福音とは、共存できません。偶像の神は真の神と異なる存在です。真の神とは異なる神は、救いではなく、破滅をもたらします。キリストに倣わない生き方には、救いまでです。それ以上には、恵みはないのです。「キリストと神との国を受け継ぐ」ことができるのは、キリストと神の言葉に委ねて、従う者であります。