2024年11月 17日 主日礼拝
『わたしたちこそ神の家』
聖書 ヘブライ人への手紙 3:1-6
今朝のみ言葉は、ヘブライ人への手紙からです。宛先のへブライ人とは、一般的にはユダヤ人を指します。ところが、初期のキリスト教会では、ユダヤ教から改宗したユダヤ人のことをヘブライ人と呼んでいました。つまりヘブライ人とは、ユダヤ人のクリスチャンなわけです。
「ヘブライ人への手紙」の著者はパウロに近いグループにいました。たぶんヘブライ人ではありません。その根拠は、この手紙の最後にある挨拶です。
ヘブライ『13:23 わたしたちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします。もし彼が早く来れば、一緒にわたしはあなたがたに会えるでしょう。』
テモテはパウロにとって最も近い異邦人の弟子であり、協力者でした。またこの記事から、「ヘブライ人への手紙」の著者は、テモテの同僚くらいの年代の人物だと思われます。また、著者はイエス様の直接の弟子ではなく第二世代のキリスト者だったことが次の箇所から伺えます。
ヘブライ『2:3 ~この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、』(た)。執筆者は、イエス様からではなく、イエス様の弟子から福音を聞いたということです。
それでは、今日の聖書を読み解いてまいりましょう。
『3:1 だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。』
イエス様のことを「使者」と呼んでいるのは新約聖書ではここだけです。(旧約はマラキ3:1のみ)
この言葉はギリシア語では「アポストロス:ἀπόστολος」で、「使徒」等と訳されます。神様がこの世にイエス様を遣わしたのは、人々が天の御国に入れるようにするためでした。イエス様自身も「その使命のために神様からこの世に遣わされた」ことを何度も言っています。例えば、その一例です。
ヨハネ『6:38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。』
そしてヘブライ人への手紙は、イエス様のことを大祭司と位置づけます。
ヘブライ『7:27 この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。』
「使者であり、大祭司であるイエス様」。確かにイエス様の役割は、神様の使いでした。そして使い以上の役割がありました。私たちの罪を贖うことです。私たちキリスト者は、イエス様を通じて神様のみ旨を受け取り、そして神様の恵みである罪の赦しに与っています。ですから、イエス様が使者であり、大祭司であることを 私たちは再確認しなければなりません。クリスチャンにとって、「イエス様は 私たちを導く知恵であり、救い主」なのです。言い換えれば、私たちは、イエス様の知恵の言葉と救いに与っています。イエス様を信じているからです。
神の御子であり、天地の造り主であるイエス様が、神様が降した私たちへの使者であると信じます。また、イエス様は私たちの罪を贖う大祭司と信じます。そして、イエス様が私たちへの使者だから、私たちはイエス様の教えに耳を傾けます。また、同じ様に、イエス様が私たちの大祭司なのだから、私たちの罪の赦しを委ねています。祭司は、私たちの罪の贖いのためにいけにえをささげ、神様と人との仲立ちとなります。だから、大祭司であるイエス様に、私たちの罪を贖ってもらうのです。
『3:2 モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました。』
モーセはユダヤ人の仲介者であり、神様から道徳的、司法的、儀式的な律法を頂きました。モーセがユダヤ人から高く評価されたように、著者はモーセが忠実であったことを証言しています。キリストは、忠実さにおいてモーセに似ていただけでなく、その全ての面で、モーセを凌駕していました。この手紙の著者は、モーセとイエス様の違いは、誰に忠実であったか?との視点で語っています。モーセは、「神の家全体」に忠実であり、イエス様は「神様ご自身」に忠実だというのです。モーセは、ユダヤ人の群れを統括する役割を神様から与えられました。そして、その職務に忠実でした。つまり、神様の命令を伝え、教えることに忠実だったわけです。一方でイエス様は、「神様ご自身」に忠実です。神様の命令通りに従ったのではなく、神様の思い、ご意思に忠実であったのです。
イエス様は、この地上で公然と「救いと永遠の命」を約束しますが、この働きは、神様から召されているとの思いからの働きであります。また、神様はイエス様の働きによって人々を救い、神様の栄光を現しました。それは、イエス様が私たちへの使者として、また大祭司として「神様ご自身」に忠実だったからです。その「忠実」と表現する意味は、大変重いです。イエス様は、大祭司として牛や羊などの動物の生贄を捧げたのではなく、ご自身を生贄として命を捧げたからです。
モーセも、イスラエルのすべての家に忠実でありました。旧約にもそのような記述があります。神様がご自身の使者として選んだのは、モーセの姉ミリアムでも兄アロンでもなく、モーセでありました。神様がモーセを選んだ理由は、神様からの信頼です。神様自身もこのように語っています。
民数記『12:7 わたしの僕モーセはそうではない。彼はわたしの家の者すべてに信頼されている。』
このように神の家であるイスラエルを統括するモーセへの信頼を、神様自ら認めているのです。これは、モーセへの人望の大きさだけではなく、イスラエルの全部の家をモーセに委ねた 神様の「力と権威」を示しています。
これほどまでに神様から信頼されたモーセですが、イエス様の偉大さはその比ではないと、このように書かれています。
『3:3 家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。』
モーセの働きは、他のすべての預言者を凌駕しています。しかし、神の子であるイエス様の方がモーセよりも偉大です。また、モーセよりも大きい神様の「力と権威」がイエス様に与えられています。神様は、モーセ以上にイエス様を信頼しているからです。父なる神様は、イエス様を信頼して、全てを任せました。神様は、イエス様をわれわれ罪びととの仲介者(弁護者:‘ο Παρακλητος)として立てたのです。
ここで、モーセとイエス様の役割について、見てみましょう。
ヘブライ『3:16 いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。3:17 いったいだれに対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。』
モーセは、古代エジプト第18王朝の頃に、奴隷となっていたイスラエルの民をエジプトから脱出させました。ところがエジプトを出発したイスラエルの民のほぼ全員が、約束の地であるカナンに入ることができずに、荒野で人生を終えることになりました。イスラエルの民は代替わりするまで、約束の地にたどり着けなかったのです。モーセが約束の地カナンにイスラエルを導いたように、イエス様は私たちを 約束の地である天の御国まで導いてくださいます。これには一生かかります。モーセは40年間荒野を導きました。一方で、イエス様は、私たちの一生という長い期間にわたって、天の御国に導いてくださいます。
『3:4 どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。』
モーセは、イスラエルを守りました。イスラエルの家に仕えて、イスラエルをエジプトから脱出させ、新しい土地に導きました。一方で、イエス様は、神の家、つまり神様の御国を建てたお方です。そして万物も、造ったのは神様です。救い主キリストは神様です。だからそこには、神様自身、神の家、そして創造した万物があります。その全てが尊いのです。そして、救い主キリストとは、イエス様のことです。
『3:6 キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。』
モーセが40年間イスラエルを導いたように、イエス様は天の御国に導いています。天の御国に着くまでには、モーセが苦労をしながらイスラエルの民を導いたのと同様に、イエス様は神の家を治めます。イエス様は忠実にその業をなし遂げるのです。だから、私たちは安心してイエス様と向き合えます。私たちは、一人だけでイエス様と向き合っているのではありません。教会と言うキリストの体として、信仰の友たちと一体となっています。つまり、私たちは教会という神様の家の家族であり、私たち自身がキリストの体なのであります。キリストの体の一部である私たちが、同じキリストの体となっている信仰の友と共に、イエス様の救いへの確信と希望をもって歩んでいきたい。そう願うわけです。
キリストと呼ばれる救い主は、神様の家を治める神の御子です。私たちがイエス様を信じ、またイエス様の救いを信じ、確信と希望を持ち続けるならば、すでに私たちはキリストの体になっているのです。
キリストは、神様の息子であり、相続人であり、この家の主です。それぞれの立場から、忠実に家を守るのです。その意味で大きな責任を持ちます。さらにキリストは、この神の家、キリストの教会、信徒たち、そして全てのものの造り主です。また、キリストは、神の御子として、教会の正当な所有者であり、主権者です。神様に忠実なイエス様は、救い主キリストであります。イエス様を信じて、イエス様の救いと教えに、確信と希望とを持ち続けましょう。私たちはイエス様を信じることで、すでに神の家である教会となっています。そこには永遠の命があります。イエス様を信じて求めてまいりましょう。