コロサイ1:21ー29

福音の希望

2022年 10月 9日 主日礼拝

福音の希望

聖書 コロサイの信徒への手紙1:21-29 

 この手紙の1章の挨拶文を見ると、パウロとティモテが書いたようです。一般的には、パウロが書いたのだろうとされてきましたが、パウロの書いた他の書簡と書きっぷりがかなり違うので、ティモテや他の弟子が書いた可能性があるようです。また、当時は自分の先生の名前を使うことも普通でしたので、挨拶文を根拠に、パウロとティモテが書いたのだとは、言えないようです。

 コロサイは、今のトルコの小アジアにある内陸の町です。また、パウロの伝道旅行のルートにはコロサイの町はありません。パウロの伝道ではなく、パウロの同労者であるエパフラスが中心になって、コロサイ、ヒエラポリス、ラオデキヤの教会を作りました。そして、そのころフィレモンがコロサイの責任者だったようです。この辺の事情は、ちょうど同じころ書かれたとされているフィレモンへの手紙にあります。ローマ(エフェソ説もあります)で投獄されているパウロのところにエパフラスが来て、コロサイの教会についてパウロの指導を受けていました。というのは、コロサイの教会には、色々な教えが混とんとしていたようです。その対策のため、パウロは、コロサイの信徒へ手紙を書きました。そのとき、パウロと一緒にいたのが、エパフラス、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカ(フィレモンへの手紙)でした。


 このころは、ローマ帝国が地中海沿岸全域を支配していました。ローマの繁栄は、属国から得る税金と、ローマの有力者が属国に持っている農園等によって支えられています。また、属国の有力者は家族をローマに住まわせています。ですから、人も物も富も、属国からローマに向かって流れていたわけです。ところが、ユダヤ人はローマから脱出し始めています。

使徒『18:1 その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。

18:2 ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。』

 ユダヤ人への退去命令というのは、皇帝の像を礼拝するよう強要したことに原因があります。ローマでは、形さえローマ皇帝を礼拝すれば、それで十分でした。信仰と言うよりは、ローマ皇帝に敬意を表させることが目的です。ですから、多神教の人には問題は起こらないのですが、ユダヤ人だけは神様以外を礼拝することを拒否して、形だけの礼拝もしなかったわけです。そんな経緯があって、ローマ周辺から ローマ皇帝の像を礼拝しないユダヤ人は、追い出されたのです。また、キリスト教徒も同じです。そういう意味で、コリントの教会の体力が落ち、福音が揺らいでいたものと思われます。

 

 エフェソからコロサイまでは直線距離でおよそ160キロです。主にエフェソに滞在したパウロは、信頼できる同労者を送ってコロサイ周辺に福音を伝えました。その役割を負ったのが、コロサイの信徒たちであり、その中心にいたのがエパフラスです。

 ですから、エパフラスがこの手紙の本当の書き手ではないか、という説があるほどです。実際エパフラスは、わざわざローマまで行って、パウロにコロサイの教会について相談をしました。その結果書かれた手紙なので、誰が書いたにしろ、手紙の意図は、コロサイの教会へのパウロのドバイスだったと言えます。

当時のコロサイ教会は、教えにかかわることで、不安定な状況にありました。そして、パウロの意見が必要であったと思われます。

 このコロサイの信徒への手紙には、他の手紙には見られない言葉、表現があります。そこに注意して読むとコロサイの問題が見えてきます。

 『1:22 しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し~』とあります。

「肉の体」という言葉は、聖書ではここだけで使われています。「肉の体」と強調した理由を考えると、「イエス様は肉の体を持たなかった」などとした偽の教えが入り込んできたものと思われます。そのような偽の教えでは、イエス様の十字架の死による私たちの罪の贖いは否定されてしまいます。そして、十字架がなければ、神様との和解も否定されてしまいます。このような、偽の教え、異端の教えがコロサイの教会に入ってきた背景があって、混乱したのだろうと想像できます。ですから、パウロは呼びかけます。「福音を聞いたとおりに語ること、そしてその福音から離れないようにと」・・・


 さて、私たちは、神様を知りませんでした。知らないで悪い行いをし、意図していなくても神様と対立していたと言えます。そして、私たちは福音を知らされました。そして、福音を信じたのです。それでも私たちは悪い行いから完全に抜け出すことはできていません。また、将来善い行いだけをする自信もありません。それでも、神様は罪人である私たちのためにイエス様をこの地上に「神によって造られたもの」としてお降しになった。私たちは、その事実によって救われているのです。イエス様は、神様であり、そして肉体をもった「人」でもあったのです。私たちの罪をその背に負った十字架によって贖うためには、イエス様は「人」としてこの地上に降る必要があったのです。イエス様は、神様であるにもかかわらず、「人」と和解するために、「人」と同じ高さになるため、この地上まで下りてきました。イエス様は私たちの目の前まできて、手を差し伸べているのです。そして、私たちはイエス様を信じたので、聖なるものとなりました。私たちは、聖なるものとしてふさわしくありません。それでも、イエス様が十字架上の死によって私たちの罪を贖ってくださいました。ですから、聖なるものとなれるよう、私たちは希望をもってイエス様に祈っていきたいと思います。このイエス様への信仰ですが、間違った教えに流されてはいけません。福音は、イエス様のことを知らせる「良い知らせ」なのです。パウロは、その福音の伝道に召命を持っていました。神様から、福音の伝道を命令されているのです。そのパウロが語り、コロサイの信徒が聞いた福音、これから離れてはいけないのです。世界中で福音が宣べ伝えられていますが、一人一人が語る福音は、神様の命令によって語られています。しかし、その福音が語り続けられるとの希望から離れては、私たちの救いも、神様との和解も意味がなくなるのです。福音の希望を手に入れ続けるためには、信仰を求め続けなければならないのです。「罪が赦され、そして救われた。だから、もう何をしても赦される。」確かにそうではあります。しかし、それだけではなく、その赦しに感謝して福音の教えに従いたいのです。私たちの罪が赦されたことを感謝しつつ、福音とともにあり続けたいと思うこと。それが福音の希望となるのです。

 

  コロサイの信徒の手紙では、天使礼拝(2:18)のことをこのように批判しています。「肉の思いによって根拠なく思い上がっている」と。また、貪欲は偶像礼拝である(3:5)、捨てなさいと言います。「イエス様こそ主キリストである」と告白していながら、神様でないものを主(しゅ)とすることは、偶像礼拝と同じように、肉の思いからのものであり、捨て去るべきことなのです。

 どうして、パウロはこのようなことを語ったのでしょうか? やはり、コロサイの教会に異教的なものや、地上的なもの、すなわち、肉の思いである貪欲が あったからだと、考えてよいでしょう。パウロから見ると、「福音を離れた」状態だったのだと思います。いったい、コロサイの教会はどこへ向かっていたのでしょうか。・・・実際に、コロサイの教会には、混淆(こんこう)主義(syncretism)の問題があったと言われています。キリスト教なのに、「新月」とか「安息日」といったユダヤ教の行事をしていたり、偽哲学思想や禁欲主義まで、取り込もうとしたようです。パウロはキリスト教にとって必要なものはすべてイエス様の中にあると述べますが、異教的要素やユダヤ教的要素が強まり、そして更にグノーシス主義と呼ばれる異端の要素も加わったものと思われます。

 コロサイの信徒への手紙から読み取ってみると、一人の偽教師による混乱ではなくて、さまざまな人が集まった結果、さまざまな教えが入り混じって、イエス様の福音が揺らいできたと想像できます。


 パウロは、伝道における苦しみについて、このように語ります。

『1:24 今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。』

 パウロは、教会のためにではなくて、キリストの体である教会のためにと言いました。肉体をもったイエス様が十字架で苦しまれたことそのものが教会であると強調します。そして、イエス様の苦しみと、伝道者の苦しみがあって、そこに教会ができ、そして維持されるのです。イエス様は十字架上で苦しみました。そして、パウロは伝道で苦しみました。パウロにとって伝道は十字架であったのです。イエス様の十字架と伝道者の十字架、どちらが欠けていても、福音の伝道は成り立ちません。

 『1:25 神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。』

 パウロは、み言葉を取り次ぐという使命を神様からいただきました。だからパウロは、教会に伝道者として献身したのです。これは、パウロの信仰告白なのです。

 

 キリストの十字架は、神様と私たちに和解をもたらしました。これを共有する教会は、苦しむ共同体です。キリストの十字架の苦しみと同じように、教会を守り伝道するために苦しむのです。パウロが異邦人に福音を伝えるためにどれほど苦しんだか?。迫害にも会い、そして偽の教師が現れ、そして異邦人への伝道についてエルサレムの教会と方針が一致しませんでした。それでもパウロは伝道の働きを喜びとしています。そして、苦しみながら奮闘しているとも、パウロは告白しています。


 これらの苦難を私たちも共有することにより、キリストの体である教会は強められます。パウロは、苦難を通してキリストと共に戦ったのです。そして、パウロの教えは異邦人には特に良い知らせでした。これまで秘められていた計画が異邦人にも開放されたのです。その計画とは、栄光にあふれた、私たちの中にあるキリストです。キリストによって神様の秘められた計画が現され、異邦人にも福音の栄光にあずかるようになったからです。パウロは、福音の希望のために、あらゆる人をキリストに導きます。パウロが奮闘している以上に、イエス様ご自身が力強く働かれます。イエス様の十字架によって、完全に罪が赦されて、御前に立つことができることに感謝です。ですからさらに、キリストにある人として今もイエス様に導かれ続けていることを感謝しましょう。福音によって救われたことは、幸いなことではありますが、今以上にイエス様に祈って、キリストにあってより完全な者になることを、そして、福音の希望を求めていきましょう。