マタイ22:15-33

 皇帝への税金

  

1.皇帝への税金


ファリサイ派に人々は、イエス様の言葉尻をとらえて、評判を落とすことを考えました。そして、ファリサイ派の人々の弟子たちとヘロデ派の人々をイエス様のところに行かせます。

そして、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか?と尋ねさせます。ファリサイ派の人々は、「律法にかなっている」と答えさせることで、イエス様の周りにいる群衆がイエス様にがっかりして、怒りだすことを期待しています。またヘロデ党の人々は、ローマに税金を払わせることで、その地位を得ていますから、「律法にかなっていない」と言ったらすぐ様に、イエス様を拘束したことでしょう。つまり、「律法にかなっている」と言っても「律法にかなっていない」と言っても、イエス様は身に危険が及ぶのです。


イエス様は、ファリサイ派の人々の悪意に気づいて、偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。と言います。だいたい、人を陥れようとしたり、利用しようとしたりするとき、丁寧な言葉使いで優しそうに近づいてきて、そして、言質を取ると手のひらを返すのが一般的です。ですから、どこかやはり攻撃的な雰囲気でわかるのだと思います。そして、群衆の前では言えないこと、ヘロデ党の前では言えないことを言うように強要するわけですから、教えを乞うているのではないのは明らかです。

 

イエス様は、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。と、見事にかわしたわけです。ファリサイ派の人々の罠は失敗に終わったのです。イエス様の知恵に驚いたからですが、それだけではありません。神殿の中で「税金に納めるお金」を、ファリサイ派の人々の手でイエス様に渡してしまいました。いかなる像を刻んではならないという律法に従って、ユダヤの人々は、貨幣に人物像を刻むことをしていなかったのです。その禁止されている刻んだ像をファリサイ派の人々は神殿に持ち込んでいることを見せてしまいました。ファリサイ派の人々の誇りとしている律法を守ることが、こんなにも日常のこととしてファリサイ派の人々の手によって破られていたのです。

 

2.復活についての問答


 今度はサドカイ派の人々です。サドカイ派は、ファリサイ派と同じ起源をもつユダヤ教の代表的なグループです。名誉職はサドカイ派、そして実質の神殿などの運営はファリサイ派の人々が牛耳っていたそうです。サドカイ派は、死者が復活することを否定していますが、イエス様に、「死者が復活するとしたら」という前提で、質問をします。否定したことで矛盾が発生すると、論理的には 「否定していたことが間違」という風に導き出されます。つまり、死者の復活はないと言っているサドカイ派の人が、死んだ人が復活するとこんな矛盾が出ますよね。やっぱり復活するという事は、「無い」と言えますよね! と言う趣旨の質問だったわけです。


 実際の質問が、レビラート婚で7人の兄弟の妻となった者が、復活した時誰の妻になるのか?という、極端な想定です。それから、復活は肉体を伴うとか、復活は現世の人間関係までも元に戻すという、先入観があるように感じられます。しかし、旧約聖書には「復活した時、肉体や人間関係が元に戻る」と言うようなことは書かれていません。

 

『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』(出3:6)

(私訳:今もわたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神です)


 イエス様は、旧約聖書のこの言葉から、復活を読み解きました。アブラハムも、イサクもヤコブもモーセの時代の人ではありませんので、彼らの肉体は死んでしまっています。しかし、神様は「これらの3人の神である」ことをモーセに言います。確かに、この3人は、すでに肉体において死んでいます。しかし、アブラハムの魂、イサクの魂、ヤコブの魂も生きているのです。そして、神様は、生きている彼ら3人の魂を今も導いている神であられる。イエス様は、そのように説明します。

 確かに、死んだ者は神を礼拝することができないと思われます。しかし、肉体が死んでいても魂が生きているのであれば、その魂は神様を礼拝することができるでしょう。イエス様は、復活は肉体の復活を指すのではないと、教えられたのです。